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第32話 ことのあとさき(3/4)
「七月……っ?」
跪いた七月は、間違いを犯した子どものように震えていた。雫が手を伸ばすと、指先を恭しく握り、爪の先に触れるだけのくちづけをする。
「勝手をいたしました……如何なるお叱りも、受けるつもりです。雫さま……」
「ぁ……」
七月の恭順は甘い痛みの記憶を呼び起こす。雫は手を引っ込めることができず、七月の指をきゅっ、と握った。この手を離したくない。文字どおり、人生を賭けて七月をひとりにしないと決めたのは雫だ。欲しいと思ったのも、雫だった。
「そんな顔をするのは、七月といる時ばかりだ」
そう混ぜっ返した久遠を、雫は振り返る。久遠は「きみの好きにするといい」と言うと、静かに頷き促した。
「失いたくない、って書いてある。それに、そんな顔をするきみも、僕は好きなんだ」
「奪われたと、感じたりしないのか……?」
「嫉妬ってこと? まあ、あるよ。でも、きみの選択ごと愛したい、って気持ちの方が強い」
困り顔で笑ってみせる久遠の襟首を雫が掴み、唇を頬に近づける。触れるだけのキスに、久遠は少し驚いたあとで、七月と視線を絡めてから、再び雫を見た。慈しむような眼差しに、雫は胸がじんと痺れた。
「好きという感情が、きみといるたびに更新される。どうしてだろうとずっと不思議だった。僕がきみを……ひいては七月を許してしまえるのは、雫を想う意志を感じるからだ。だから、不測の事態だったけれど——必ずしも、悪くはなかった」
久遠の言葉に、雫は悦びに似た感覚が、身体の奥底から湧き上がるのを感じた。
「初めて、きみからキスをしてくれた」
久遠は雫の片手を取ると、その親指を折り曲げた。次に、人差し指、中指、と折り曲げてゆく。
「僕を信じてくれたし、全部を見せてもくれたよね」
残った小指に久遠の小指が絡み、約束を交わすように交差させられる。
「嬉しかった。きみは七月には弱みをみせるけれど、僕にはちょっとよそ行きの顔をしがちだから。僕に、色々な感情を味わわせてくれるのは、他の誰でもない、きみだ。そんなきみが僕らのものになる。今夜、このベッドの上で。たくさん抱いて、夜にはうなじを噛んであげる。もちろん、証人がいた方がいいよね? 七月に、その場にいてもらおうか?」
「いい……の?」
久遠の公認で、七月を「そういう扱い」にしていいのか、とても重要で大きな問題だ。
「久遠さま……私は」
七月が不安げに久遠を仰ぐと、久遠は静かに頷いた。
「遠慮するな、七月。それに……いいも何も、この関係を公にしたら、きみらこそが、そういう目で見られるんだよ。僕は、支えることはできる。でも、耐えるのは雫と七月だ。守ってあげることはできるけれど、もしも雫が必要以上に傷つくことがあれば、僕は雫ひとりを選んでしまうだろう。その条件下で、僕は七月となら、きみを共有したいと考えている。雫さえ、よければだけれど……」
尋ねる久遠の頬にも、少し不安が滲んでいた。雫は再び七月に向き直り、きゅっと唇を引き結ぶと、尋ねた。
「七月は……おれと一緒に、西園寺家に嫁ぐのは、嫌じゃないか……?」
七月が自主独立の手段を模索し続けているのを、ずっと雫は近くで見てきた。だからもし、七月に独り立ちしたい意志があるのなら、尊重したかった。
「雫さまは、私の最優先事項です。今までも、これからも……。あなたへ飛んでくる火矢を払うのは、私の役目、私の存在意義でもあります」
七月は迷いのない、きれいな表情をしていた。先刻、雫が散々甘えた名残りか、久遠と何かを話したことが関係しているのか、雰囲気に軽さが見えた。
「おれは、きみが……七月が、欲しい。おれと一緒に、西園寺家へ嫁いでくれないか」
「……仰せのままに」
傅いた七月に頷いた雫は、隣りで見守っている久遠を振り返り、言う。
「おれ……我が儘が言えるなら、七月と一緒に、きみのところへいきたい」
甘ったれた雫を受け入れてくれる度量の広さ。これ以上ない愛情を注いでくれる久遠は、アルファである前に、雫の大切な人でもある。そして、七月もまた、かけがえのないひとりだった。
「いいよ。もちろん。……じゃ、決まりだね?」
触れているだけで雫の体温が上がり、心音が強く打ちはじめる。
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