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第33話 雫(1/5)

 久遠に手伝われてシャワーを浴びた雫は、婚礼用の純白の三つ揃えに袖を通した。 「顔が少し変わってしまったけれど、寝不足だと誤魔化してしまおう。まだうなじを噛んでいないから、他のアルファへの警戒を忘れないで。でないと僕らが困る」  ドレッシングルームで、髪をセットしてくれた久遠を振り返り、雫が礼を言おうとした時、扉の向こうで物凄い怒鳴り声がした。 「なぜお前が……っ、見張りはどうした! あれはどうなったのだ!」  詰問する泰衡を、七月が押しとどめているようだった。 「雫さまは、今、久遠さまが起こしに」 「したということかっ! わたしが場を抑えているうちに、あやつらは……っ」 「うなじは無事です」 「何だと!」  七月の放った最後の一言は明らかに余計だったが、仲裁に出てゆこうとする雫の腕を、久遠が優しく引き止めた。 「準備は? できた? じゃ、いこうか、雫」  最終確認をし、軽やかな足取りで雫を伴った久遠が扉を開ける。昼日中の眩しさに目を細めながら、久遠とともに雫が進み出ると、七月に食いかかっていた泰衡が振り返った。 「大叔父さま……お待たせしました」  純白のモーニングコート姿の雫とともに、正装姿の久遠が現れると、泰衡は猫なで声を出した。 「これは西園寺の……。雫はどうでしたかな? 式の時間を過ぎているゆえ、呼びにきてみれば……七月が要領を得ないことばかり言うので、叱りつけていたところでした。お揃いで、何よりですな」  雫と久遠を交互に眺め、交歓があったかどうかを見極めようとした泰衡は、握っていた七月の襟をさっと離すと、鋭く雫を凝視した。うなじがどうなったかを問う眼差しに、うら寒いものを覚えた雫は、歯を食いしばり進み出た。 「しばらく……具合が悪く、臥せっておりました。時間に遅れたことは、お詫びします。でも、おれに発情促進剤を盛ったのは、大叔父さまですね……? その影響を受けての、この事態です。七月を責めるのは、やめていただけませんか」 「何の話か……ああ、タイが曲がっているぞ。直してやるから、こちらへきなさい」  招き寄せる泰衡を前に踏みとどまれたのは、隣りにいる久遠のおかげだった。これ以上、七月を傷つけさせない。泰衡が焦れて雫に触れようとした手を、久遠がすげなく払った。 「雫のタイなら僕が結び直します。その手で、触れていただきたくありません」 「は……?」  それがオメガの保護者に対する態度か、と睨む泰衡に、久遠は毅然と言い放った。 「僕は大変、失望しました……泰衡さん。率直に申し上げると、もう雫にも七月にも、かかわらないでいただきたい。七月も、今日この時をもって、僕が貰い受けます。あなたとの縁は、これまでとさせていただく」 「……これが何か不始末をしでかしましたかな? でしたら、使用人の不始末は主人の責任。七月は何しろアルファにしては、不出来な半人前で。わたしの話をよく飲み込めなかったようで……」  泰衡は半目で顎を引き、久遠をねめつけた。久遠の不遜な態度を、七月が何かミスをして、不興を買ったせいだと解釈することで、適切な距離と礼節を間接的に求めた、いかにも泰衡らしい間の取り方だったが、久遠はただ、針のような視線で泰衡を圧倒した。 「七月の扱いも、閨房術などという胡散くさい行為を、異父兄弟の彼らに強要したあなた自身にも、最低限の礼節すら使いたくないほどだ。あまりにも酷すぎる」 「何のことでしょうか……?」  泰衡の目がぎろりと閃いた。上背のある久遠を見上げる泰衡もまた、あからさまに苛立ちを態度に出した。雫は、怒りに震える久遠の拳をそっと制し、泰衡へ向き直った。 「大叔父さま……おれは、今まで、あなたに諾々と従ってきたことを、後悔しています。オメガだから、という劣等感から、あなたに向き合おうとせずに、遠慮していたことも……。もっと早く、あなたとちゃんと、話をするべきだった。怖気付いて七月の背中に隠れていないで、面と向かって本音を言えばよかった。あなたがおれを理解しないのは、おれがあなたを理解しようとしてこなかったことの裏返しだ。だから、朝食に発情促進剤を盛られたことにも、気づかなかった。それは、自業自得です。でも……っ」  顔を上げ、唇を震わせる雫に、泰衡は心底、面倒くさそうな視線を向けた。 「要領を得ないな。何を言っている? それより、時間が迫っている。急ぎなさい」 「っ」  圧のある声に、雫は身を硬くする。泰衡の言動にいちいち傷つくのは、どこかでまだ期待をしているからだ。幼い頃から何不自由なく整えられた環境を思うと、泰衡を恨む気持ちを、どこかで躊躇してしまう。だが、雫は七月と久遠を選ぶと決めた。ふたりのために、引き下がるわけにはいかなかった。

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