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第33話 雫(2/5)
「……うなじを、ご覧になりたいのでしたら、どうぞ」
雫は、久遠に結ってもらったタイを解き、シャツの襟を下げ、後ろを向いて、後れ毛を横に退けてみせた。そこにはまだ誰にも蹂躙されていない、白皙の処女地があった。
「っこれ、は……っ」
白いだけのうなじを目の当たりにした泰衡は、目に憎悪に近い光を宿した。
「なぜっ、噛み跡がない……っ、お前は、いったい……っ。発情しなかったのか……っ。こ、ここまできて……っ!」
青ざめた泰衡に、雫は頭を下げた。
「申し訳ありません。育てていただいたことには、感謝しています……。でも、七月や久遠を巻き込むなさりようは、肯定できません」
憎々しげに雫を見下した泰衡は、火がついたように拒絶した。
「七月……っ、これは何だっ! せっかくここまでお膳立てをしたというのに……! これ以上、失望させるのなら、お前には、もう何も……っ」
振り返るなり、七月へ呪詛の言葉を吐き出しはじめた泰衡の正面に回り込み、雫は七月を庇った。
「七月を責めるのは筋違いですっ。七月は、ちゃんと大叔父さまの言いつけを守りました。おれが、ちゃんとしないからで……っ」
「黙りなさいっ、この、オメガが……っ! そこを退け……!」
激昂する泰衡を止めるつもりが、火に油だった。だが、通せんぼをする雫に向けて振り上げられた泰衡の腕を、久遠が掴んだ。
「は、離さんか……っ」
握られた泰衡の手首が、ぎち、と嫌な音を立てる。久遠は造作もなく泰衡の腕を捩じり上げ、動きを止めると、平然と耳打ちした。
「なぜ発情したオメガの部屋に、ふたりもアルファがいながら、雫のうなじが無事だったのか……知りたくありませんか? 泰衡さん」
「よ、抑制剤のせいだろう……! でなければ……っ」
「いいえ。雫との初夜を見越して、僕はいつもより弱いものに変えてきている。この部屋にいるアルファになら、それぐらいのことは、わかるはずです」
「まさか……「F」ランクの影響か……っ?」
婚前診断書の結果は、結局、覆らず、泰衡は言を左右させ、公表を引き延ばしていた。既成事実をつくってから発表するつもりだったのかもしれないが、久遠が手を回したのか、西園寺家側も、それについて一言の抗議もなかった。
「婚前診断書のせいだったら、さすがに僕も促進剤を検討しますよ。でも、雫は、ちゃんと、あなたが盛った薬に、反応したんです。それはもう、情熱的で素敵な時間でした」
久遠は雫を見つめ、愛しげに目を細めた。
「ならば、なぜ……っ」
脂汗とともに久遠の拘束から逃れようとする泰衡は、歯を食いしばり、身を捩った。雫のいるインペリアル・スイートに久遠と七月が揃う理由が、未だに理解し難いようだった。
「僕らは三人でしたのです」
「さ、ん……っ?」
けろりと悪魔のように告白した久遠は、一瞬、理解できない空白に陥りかけた泰衡の手首を、無情に離す。
「さん……に、ん……? で、な、何、を……?」
理解が追いつかない顔の泰衡が、惚けた表情で久遠を仰ぐ。久遠は泰衡を見下ろし、澄み渡るほど怜悧な声で伝えた。
「あなただって、若い頃にやってきたことでは? 僕と七月は相互監視のもと、雫を抱いた。だからうなじが無事だったのです。そして、あなたの計画は失敗した。これ以上、足掻いても無駄ですよ。閨房術のことも把握済みです。まったく、不愉快な企みをしてくれたものですが……おかげで僕らは、新たな可能性に気付くことができたわけですが」
久遠に翻弄されながら、やがて事実を把握し、理解すると、泰衡は動揺を露わに、若き西園寺家次期当主を睨みつけた。そんな泰衡に、雫は語りかけた。
「大叔父さま。七月の反対を押し切って、閨房術のことを久遠に打ち明けたのは、おれです。久遠との、信頼関係を築くために、必要だと思ったからです」
「お前は……っ!」
泰衡の舌打ちに身を竦めつつ、雫は引き下がらなかった。
「お、おれだって……好きでオメガになったわけじゃ、ありません……っ。西園寺家との婚姻が、音瀬家にとって重要だということは、理解しています。なぜ、大叔父さまは、久遠がおれを愛していることを、信じようとなさらないのですか? おれは、久遠にちゃんと嫁ぎたい。こんな無茶をしなくとも、音瀬家と西園寺家が、ともに繁栄して欲しい。そう考えているのは、七月も同じです。なぜ、信頼しようとなさらないのですか……」
「アルファの愛など、信じられるか……!」
強い反発とともに、泰衡は声を震わせた。
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