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第33話 雫(4/5)

「大叔父さまのお許しがなくとも、かまいません。おれたちは……」  細く不安定な声で言い募る雫に、ずっと黙っていた七月がぽつりと静かに口を開いた。 「……雫さま」  七月は雫へ歩み寄り、握られた拳を手で包んだ。 「私が衝動を持て余していた時期があったことは事実ですので、お気持ちだけで……」 「七月……っ、でも、それは……っ」 「もう、いいのです。大丈夫ですから」  控えめに、七月が頷く。何度この仕草に助けられてきたか知れない。存在を賭して守ろうとしてくれる七月のあとを、久遠が引き継いだ。 「七月。雫。泰衡さんは、きみらに当たることで無念を晴らそうとしていたのだろうね。許されることではないし、きみらが気に病むことはない。……泰衡さん。ここまで拗れたからには、当然、もう元の関係には戻れない決意があるのでしょうね? あなたの秘密と引き換えに、雫と、七月を貰い受けます。異存はないですね?」 「っ……お前はクビだっ、七月……っ。子も成せぬ出来損ないのアルファにやる金など、一文たりともあるものかっ」  絞り出すように叫んだだろう泰衡の声は、か細く掠れて消えそうだった。 「同情など、真っ平だ……っ、わたしの人生は、誰にも蹂躙されてなどいないっ。そうだ。それに、七月が雫に発情促進剤を飲ませたのは事実だっ。その罪に、一生苦しむがいい……っ。お前たちだけが幸せを、未来を享受するなど、許されるものか……っ、ありえないっ」 「逆恨みは勝手ですが、これ以上、僕らにいらぬ暴言を吐き続けるのなら……手に入れたあなたの情報すべてを公表しますよ。早逝されたあなたの兄ぎみのことや、あなた自身のバース性も含め、ここで起きたことについての詳細も。もしかすると、ことによれば、司直の手が入ることになるかもしれませんね? 安寧のうちに余生を送りたいのなら、これ以上、僕らを蔑ろにしないことです」  毅然とした久遠の声に、泰衡はびくりと身体を震わせた。それを一段落の合図にすべく、久遠は静かに泰衡を促す。 「さぁ、式へ臨む準備はできました。関係各所へ連絡してください。どうせ、すべてあなたが止めているのでしょう? ああ、それとも……頼みごとをする時ぐらいは「お義父さん」とお呼びすべきですか?」 「その呼称を、公の場以外で使うなっ、若造が……っ」  泰衡は強く吐き捨てたつもりだろうが、決闘に負けた犬のように背中を丸め、入ってきた扉へと踵を返した。 「旦那さま」  途中、七月が泰衡に声をかけると、びくりと全身を緊張させた。 「長年にわたるご厚情に感謝いたします。私を、育ててくださったこと……」 「……皮肉なら、もう少し上手く言え」 「いいえ。私を引き取ってくださったことには、感謝しています。ありがとうございました」  皮肉などではないと、雫にはわかった。泰衡は弱いのだ。だが、どれだけ歪んでいようとも、扶養の義務を放棄しようとはしなかった。その内面に巣食っていたのが権力欲だけだとしても、七月も雫も駒のひとつとしか認識されていなかったとしても、泰衡の援助なしには、雫も七月も、ここに存在しない。 「皮肉でないのなら、そんなものは不要だ」  馬鹿らしい、と吐き捨てた泰衡は、やけに小さくなった背中を向けたまま、扉の向こう側へ消えた。  メイプル材の扉が閉まる音に、苦いものを孕みながら、雫は少しだけ反省していた。泰衡は、なぜかはわからないが、オメガである自分自身を憎んでいるのだ。憎悪は泰衡を蝕むだけでなく、オメガとなった雫、そして泰衡に何かを強いたアルファに重なる七月や久遠をも、飲み込んでまだ余りあるものだった。決別するしかなかったが、もし泰衡にも信頼に足る誰かがいれば、違う道があったかもしれない。泰衡の絶対的な孤独を思うと、雫は少し気の毒になった。 「久遠、七月。ずっと矢面に立ってくれて、ありがとう。おれひとりじゃ、きっと泣いているだけだった。きみらのおかげだ」 「そんなことないさ。きみは、僕を引っ張ってくれる強さがある」 「七月は雫さまの成長を、嬉しく思います」  雫の肩を抱いた久遠の腕に、少し力が込もる。七月が雫の正面にきて、ほどかれたタイを結び直してくれる。

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