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第34話 宴のあと、最終決戦(2/2)
落ちるように眠ったはずの雫がふと目を開けると、傍らに久遠の寝息の気配がした。床に座ったまま、雫のいるソファの肘掛け部分に頭を乗せ、久遠は目を閉じている。寝顔を見たくて雫が身じろぎすると、久遠が眠そうに半眼を瞬かせた。きれいな漆黒の眸が雫を探し、ピンとが合うと同時に微笑む。
「ごめん、久遠。起こした……?」
もぞりと動いた雫の手を握る指に、久遠は少しだけ力を込めた。
「いや。待ってた……おはよう、雫」
雫が動くのを確認すると、久遠は少し掠れた声で言い、柔らかな表情になる。
「疲れたろ? 久遠。もう少し眠るか……?」
披露宴で、あれほど緊張した久遠を初めて見た。いつも飄々と笑顔を振りまく、同一人物とは思えない過敏な状態だった。それだけ流れの読めないことをやってのけたのだと思うと、せめて眠りぐらいは安らかに訪れて欲しい。だが、久遠は穏やかに深呼吸した。
「きみといられる現実の方がいい。……今、何時?」
「夜、十時半を回った頃かな」
携帯端末で時刻を確認すると、久遠は大きな欠伸とともに立ち上がった。
「よく寝た……そろそろ七月が帰ってくる頃か? お腹が空いたな。何か食べよう」
「うん」
動き出した久遠のあとを追うように、雫もキッチンへ向かう。
「何があるかな……?」
冷蔵庫を開け、ふたりであれこれ物色していると、やがてノックとともにメイプル材の扉が開き、七月が顔を見せた。
「ただいま戻りました。久遠さま、雫さま」
七月は正装から、地味なアッシュグレーのスーツに着替えていた。タイは紺地に臙脂色のドット柄だ。雫は仕事着姿に戻った七月に、日常を思い出し、少しほっとした。
「おかえり、七月」
振り返った雫が言うと、一緒に冷蔵庫を物色していた久遠が尋ねる。
「お疲れさま、七月。首尾はどうだった?」
「概ね、至急のものは片付けてまいりました。引き継ぎに三日ほど、音瀬家へ通うことになりそうですが、あとはリモートでどうにかなるかと……。よろしければ、七月が何か、お作りいたしましょうか?」
七月が身体を傾けると、久遠がぱっと嬉しそうな顔で零した。
「不純物が混入していない食べ物を見繕うのに苦労していたところなんだ」
冷蔵庫には果物や生ハム、ヨーグルトなどが入っており、食料庫らしき扉を開ければ、レンチンできるパスタから白米まで、ほぼ何でも揃っている。だが、そのほぼすべてに発情促進剤が添加されていた。久遠の困る様子に七月は表情を穏やかに崩すと、持参した紙袋を持ち上げた。
「おふたりとも、お腹が空いていらっしゃると思い、プリンを見繕ってまいりました。お召し上がりになりますか?」
「さすがだ、七月。ありがたく頂くよ」
「あ、おれの好きなココア味もある。もしかして全種類、買ってきてくれた? 七月は、どれがいい?」
雫らの反応に、七月は落ち着いた様子で笑顔になった。年齢差を意識することは、普段ほとんどないが、こういう時の七月は、とても格好良く見える。
「私は、残ったものをいただきます。余ったプリンは冷蔵庫へ」
脱いだジャケットをソファの背に引っ掛け、ネクタイを緩めようとしたところで、七月は雫の視線にやっと気づいた。
「……どうかなさいましたか? 雫さま……」
包み込むような色で、心当たりが何もない様子で首を傾げる七月に、雫は言語化すべきか迷い、少しだけ言い淀んだ。音瀬という重石の外れた七月が、急に遠く感じられるのは、自由を謳歌しようとしているからだろうか。
「気を使わなくていいのに、と思っただけなんだ」
七月の意志を削ぐような枷になりたくない。雫と一緒にいることで、七月が幸せになれなかったら、と不安になる。
「七月。僕らは三人で生きると決めたんだ。今を持って遠慮はいらないよ。それに、これからラスボス戦だ。だから、きみも好きな味を選ぶべきだ。三人揃って、最期の晩餐になるかもしれないのだから」
「それは、些か……大胆なお申し出ですが」
「雫に触れる制限も、ラスボスに勝ったら、解く。僕に諮る必要は、もう一切、ないよ」
面食らった七月は目を瞠り、しばし考えながら紙袋を覗き込むと、ふたつプリンを掴んだ。
「では、私はプレーンとピスタチオを」
付属のスプーンで、各自がふたつずつプリンを平らげる間にも、七月はもうひとつの袋からA4サイズの封筒を取り出し、久遠に渡した。
「音瀬家から戻るついでに、斎賀准教授の家へ寄ってまいりました。こちらが例の」
「間に合ったか。良かった。これがあれば、僕たちの勝率が上がる」
「久遠さまに各所をせっついていただいたおかげで、時間を無駄にせずに済みました」
「そっか」
仕事の顔になった久遠が資料を確認しているうちに、雫は七月と競うようにプリンを食べ終わると、余りを冷蔵庫に仕舞う。
おもむろに、書類の中身を精査していた久遠が立ち上がると、七月も再びジャケットを着る。ふたりのアルファとひとりのオメガが揃ったところで、久遠が口火を切った。
「じゃ、最期の決戦、と、いこうか」
「でも、どこに……?」
決戦という言葉に不安を覚えた雫の背中を七月が支え、久遠をフォローする。
「最上階……スカイラウンジですね」
端的に言う七月が雫の右側に、久遠が左側に立つ。廊下を抜けたところにあるエレベーターに乗り込むと、七月がいつもの癖で、制御パネルの前に陣取った。
「緊張、している……?」
久遠の気配を感じ取り、雫が窺うと、言葉少なに久遠が呟いた。
「少しね……でも、勝算が、ないわけじゃない」
天井も、床も、壁も、硝子張りの縦長の箱からは、嫌でも煌びやかな夜景が見えてくる。まるで地上の星々になったようだと感じ、震える雫と、強張りがちな久遠へ、七月が言葉を添える。
「きっと上手くいきます。さ、参りましょう」
緩やかな上昇を止めたエレベーターから、久遠、雫、最後に七月の順に出る。
スカイラウンジは薄暗く、生のピアノの音がどこからともなく響いていた。
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