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第35話 ラスボス(1/5)

 スカイラウンジの窓一面に、東京湾を望む夜景が星屑よりも煌びやかに瞬いている。  気怠げなピアノが、まばらにいる客らのざわめきを適度に包み、中央のバーカウンターを素通りした久遠を先頭に、雫、七月の順に、ラウンジの奥の観葉植物の繁茂する区画へ踏み入る三人を追う視線はない。木々が生い繁る洞窟のような短い通路はさらに暗く、まもなく視界が開けると、つるりと天井の高いサンルームへ辿り着いた。  会話を聞かれる心配のない隔絶された空間は、目の前の壁の全面と、天井の半分が透明な硝子で覆われた個室になっており、夜景と一緒に夜空も満喫できるプライベートスペースになっていた。かろうじて影がわかる薄闇の真ん中に置かれたローテーブルを、囲むように配された凹型のソファの左側面に、アルコールの芳しい香りをさせたひとりの人影があることに気づいた雫は、もう少しで驚きの声を上げるところだった。 「ご足労いただき、ありがとうございます、父上」  久遠が声を発すると、ローテーブルに加水用の水差しとリキュールグラスを並べた恒彦は、透明な液体を舐めるようにゆっくり啜り、振り返った。 「お忙しい中、時間をつくっていただき……」 「前置きはいい」  久遠の口上に、切れ味の鋭い言葉を投げつけた恒彦は、腕時計をトン、と指差した。能率重視の仕事人間だが、少なくとも表面上は、久遠の話に耳を傾けるつもりのようだ。 (お義父さまは、おれだけじゃない……久遠にも情を表現しない人なんだ)  ラスボスが誰か判明し、久遠は雫を伴うと、ローテーブルの右側に、恒彦に向き合う形で腰を落ち着かせた。七月が雫の斜め後ろへ立ったまま控えると、恒彦はちらりと上目遣いで睨んだ。 「勝手をするなと言いつけたはずだが……。株が暴落するぞ」 「一時的なものです。僕らが信用を勝ち取ってゆけばいい」 「状況を楽観視するのは、お前の悪い癖だ。久遠」  恒彦は怒りを表現するでもなく、あくまで温度のない声で久遠を諌めた。が、雫のことは一瞥たりともしない。この場で存在を許されるのはアルファだけだという態度に、久遠は眉を寄せたが、恒彦は歯牙にもかけず、先を促した。 「お前に今さら説教をする気はない。話だけは聞いてやるが、判断は良くて保留だ」  恒彦が久遠をまっすぐ睨む。頑なに雫へ視線をやらない恒彦の意志を悟らずにいることは難しい。だが、この場で何が話し合われるのか予備知識のない雫は、口を出すことも動くこともできなかった。  久遠は若干、前傾姿勢になると、顎を引いた。 「結構です。では、僕らの要求を。まず、雫の他に、外に妾をつくる話を撤回していただきたい」 「二年は待つ。何が不満だ?」 「雫以外の誰かに子を産ませる気はありません。僕が愛しているのは雫であって、西園寺家の跡継ぎを生む誰かじゃない」 「いくらお前でも、西園寺家の血を絶やすことは許されないぞ」 「どこの馬の骨とも知れない誰かを囲うぐらいなら、僕はここにいる涼風七月を、公私をともにする人物として囲います。彼なら身元もはっきりしているし、性質もよくわかっている。身体検査の必要もない。合理的だ」 「非合理だな」  恒彦が声を発した時、ふわりとかぎ慣れない墨汁のような、濃くて重い、とろみのある水を連想させる匂いが雫の鼻先を掠った。おそらく恒彦のフェロモンだろう。雫は、嫌でも更地のうなじを意識せずにはいられない。 「お前の後ろにいる男、元は馬の骨だろう? 音瀬の操り糸が見えるぞ」  七月を侮辱する言葉に、かっとなりかけた雫は自制した。話し合いがはじまってから、恒彦は、久遠と七月には何度か視線をやるが、オメガが意見することは許さないという意志を、一貫して示している。互いに囲碁でも打ち合うような会話を続け、久遠が正攻法で恒彦の土俵に乗り、勝機を探るのには、何か理由があるはずだ。 「耄碌されるには、些か早いのでは? 七月は音瀬家と完全に切れていますよ。少しあたればわかることだ。ついては、斎賀准教授と彼が立ち上げるスタートアップへ、僕が個人的に出資したいと思っています。お許しをいただけますね?」 「斎賀ラボの件か?」 「はい」  久遠が答えると、恒彦はローテーブルの上のグラスに少しだけ加水し、頷いた。 「よかろう。あれはなかなか面白い試みだ。我が社としても有望な起業家とは、手を結んでおきたい。だが、あくまでビジネス上の話だ。親族に連なることは、別問題だ」  恒彦にも、斎賀ラボのスタートアップな魅力的に映るのだ。雫は少し安堵したが、同時に譲らぬ一線を引かれた気もした。 「理由をお聞かせ願えますか? 父上」 「斎賀ラボへの肩入れを、身内の贔屓と誤解されては困る。……きみとて、人生を賭けた勝負に余計なノイズを入れたくなかろう? 涼風七月、と言ったか……。きみの父親はベータだそうだな? さらに花嫁と同腹の兄だとか。醜聞になるのに十分な事実だ。西園寺家が泥を被る義理はない」  七月は黙したままだった。代わりに久遠が苛立たしげな声を上げる。

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