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第35話 ラスボス(2/5)

「父上。七月の入籍と斎賀ラボへの投資は切り離せません。だから、こうしてお願いしているのです」  辛抱強く説得を試みる久遠の横で、何もできずに見守るしかない雫は、もどかしかった。久遠を、七月を、心から愛している。でも、その気持ちゆえに雫の存在意義が高まるわけではない。子を産めない半人前だと判断されれば、少なくとも形式上はそのまま、西園寺家から静かに切り離される可能性もある。 「くどいな。これ以上の押し問答は時間の無駄だ。それとも、私に言わせたいのか?」  恒彦は直系の血を引く息子の久遠が、もぎ取ろうとするものを、子どもの我が儘程度に考えている節がある。久遠が黙っていると、恒彦は容赦なく言葉を継いだ。 「涼風七月は花嫁の従者だった男だ。家にもたびたびきていたな? 運転手兼付き人として。そんな身分の人間を、西園寺家に迎え入れる利がどこにある? 披露宴でお前に合わせてやったのは、あの場で結束を乱すことがさらなる醜聞を生むことになるからだ。いい加減に現実を見なさい。我々一族は、こうして生き延びるより他にないのだ」  その声に苦いものが混じっているのを、雫は驚きとともに聞いた。まるで、かつて意志をもがれ、諦め、負けてきた者のような響きの声だった。 「……西園寺さま」  しばらく続いた沈黙を、当事者の七月が遠慮がちに、だがはっきりと破った。 「私は久遠さまに拾われた身……たとえ身内と認められなくとも、恩には報いるつもりです。仰るとおり、過去を洗えば、私からは、たくさん埃が出てくるでしょう。そういう生き方をしてきたことは、事実ですから。ですが、もし温情をいただけるのでしたら、二年だけ時間をいただけないでしょうか? たった二年です。そのあと、西園寺家が私をどうしようと、かまいません」  恒彦は七月を、凍えそうな視線で射た。 「きみが音瀬の紐付きでないと証明できるか? 解雇されたという噂は、私の耳にも入っている。長年、仕えた主人の不興を買って、切り捨てられたらしいな。勝ち馬に乗り換えるふりをするには、それぐらいのインパクトが欲しいものだ」 「それについては……」  顎を上げた七月を遮るようにして、久遠が苛立ちの声とともに、持参していたA4版の分厚い封筒をローテーブルに滑らせる。 「七月は僕と雫の養子にします。彼が「何の価値もないアルファ崩れ」かどうかは、これを読んで判断していただきたい」 「中身は?」 「僕と雫の婚前診断の正しいランク、及び七月の存在意義です。あなたが恣意的に改竄した婚前診断の証拠も、一緒に入っていますが」  恒彦の目が、一瞬、昏い輝きを発したが、久遠はさらに続けた。 「七月がただの無精子症でないことは、この書類で明かされています。音瀬のスパイでないことも、泰衡氏の周辺を洗えば簡単に出てくるはずです」  無造作にローテーブルの上に広げられた資料には、論文が数点、付随していた。恒彦が面倒くさそうに書類を上からパラパラ捲り、眉を顰める。 「「S」級……? 何だ、このいい加減な評価は……」  ぼやいた恒彦の顔色が、最初の数ページを目にし、真剣みを帯びはじめる。無言で字面を追う恒彦をしばらく許した久遠は、頃合いを見計らい、促す。 「七月のフェロモン及び精子には、ある特定のオメガの卵子を保護し、受精を促進させる効果があります。さらに、保護された卵子からできた受精卵の約八割が男児、さらにそのうちの約七割が、第二種性別判定時にアルファと分類されることが、その後の追跡調査で確認されています。この組み合わせは極めて稀で、統計上、十二万人に一人以下だそうです。言っておきますが、あなたのように裏から手を回して結果を操作したりしていませんよ。ついでに、父上が作成させた偽のオール「F」判定の書類の改竄記録については、表沙汰にしようとは考えていません。今は、まだ」 「ふむ……」  驚いた雫が久遠と七月を振り仰ぐが、両者とも平然としていた。事前に把握済みの事実なのだと気づき、湘南の別邸で、初めて三人でした夜以来、週末ごとに機会はいくらでもあっただろうと思い至る。  恒彦がつぶさに書類を読み終わるまで、久遠はそれ以上、何も言わずにいた。読み進める恒彦の表情が、思案するものに変化し、終わりまで通読すると、やがてため息ともつかない呼気を吐いた。 「僕と雫の本当の相性は、低く見積もっても平均値……つまりランクCです。二年、子づくりに励めば、きっと新しい命を授かることができる。けれど、もっと迅速で確実性の高い方法があるのなら、七月を使う方が合理的です。男児のアルファが生まれる確率が跳ね上がるわけですから、躊躇う理由はありません。スペアは、多い方がいいとお考えでしょう……?」  露悪的な笑みを乗せ、言い切った久遠に、恒彦は書類を投げ出し、眉間を揉んだ。 「私を脅す気か? 久遠」 「はい。いいえ」 「どちらだ」 「父上にわかっていただきたいからこそ、お時間をいただいたのです。雫も七月も、僕の我が儘に巻き込まれているだけだから、譲る気はありません。賢明なご判断を」  久遠の透き通るような声に、よく似た恒彦のかすれ声が言う。

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