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第35話 ラスボス(3/5)

「我が儘放題に育てた覚えはないが……よく調べ上げたものだ」 「恐れ入ります」 「花嫁は、この事項に同意しているのか?」 「そう考えていただいて、差し支えありません。父上」 「そうか……」  久遠に代弁されなければ、発言権すら得られないが、久遠が投じた武器は重く、雫も全面的に賛成できる。恒彦は加水用の水差しとグラスを横へ退かすと、しばらく思案に耽った。 「なるほど……確かに良くできている。花嫁の同意も、涼風七月の意志と背景も、こちらが持っている情報と齟齬はない。辻褄も合っているな」  まるで先鞭を打つように、ひとつひとつ確認を取りつつ、頷く恒彦に、雫が希望を抱きかけた時、鋭い反撃を受ける。 「だが、失格だ」 「なぜですか……っ」  久遠が食いつくように声を上げる。  恒彦は凍えるような目つきでそのすべてを弾き返した。 「お前の隣りにいる花嫁は、果たしてお前のことをどれぐらい知り、これに合意したのだ? たとえば……十四年前にお前が仕組んだ狂言誘拐に巻き込まれたことで生まれた絆であることを、この花嫁がちゃんと理解しているとは到底、思えないのだが」 「っ……」  恒彦の放った言葉の意味に、雫は脳内が空白になった。久遠が一瞬、隣りで動きを止める。 (狂言、誘拐……?)  振り返ると、背後で七月が、下唇を噛んで沈黙する久遠を、驚きとともに凝視していた。 「久遠……?」  雫がそっと名を呼ぶと、久遠は膝の上で解いた手を、再び握りしめた。  恒彦は蛇のような目つきで、血の繋がりがある実の息子の久遠を睨んだ。 「状況を楽観視するなと何度も教えたはずだ。幼いお前が手配した男は、まだ生きていて、時々、金の無心にくるそうじゃないか。年端のいかない音瀬の子どもひとりと仲良くなるために、お前が裏で糸を引いていたと知れたら、花嫁はどう思うだろうな?」  もたらされた言葉が、雫の脳内に当時の光景を再現する。久遠が追いかけてきて、雫を担いだ男を引き倒さなければ、もっと大事になっていたはずだ。だから感謝してもしきれない。だから、捨て身で自分を庇ってくれた久遠に、雫は自然と尊敬と信頼を向けた。  恒彦は場の空気を味わうように息を吸い込むと、初めて雫に相対した。 「もう時効だから言うが、きみに近づくために、私の息子は誘拐未遂事件をでっち上げたのだ。実行犯の周辺は汚れきっていたから、式の前に私が尻拭いをしておいた。もう我々の前に現れることはなかろうが、子どものやることは雑でいけない」  蒼白になった久遠の顔が、何よりも恒彦の言葉を事実だと裏付けていた。膝を擦り剥く程度で済んだのは、久遠の勇気のおかげだと、ずっと思ってきた。だが、違うのだ。 「花嫁への隠しごとは少ない方がいいだろう? これでもきみらは、まだ愛だの何だの戯れ言を言う気かね? いい加減に現実を受け入れ、大人になりなさい」 「本当……なのですか? 久遠さま……」  七月が掠れる声で呻いた。あれがやらせだったとすると、他にも隠しごとがあるかもしれない。久遠は言い訳もせずに黙ったままだが、やがて小さく囁いた。 「っ……本当、だ。ごめん……」 「なぜですか……?」  いつから。  どこまで。  七月の懇願に似た問いに、雫は耳を塞ぎたかった。心が荒れ狂い、引き裂かれる。痛みを伴う事実に唇を震わせたが、言葉が出なかった。 「雫が……欲しかったんだ。誰かに取られるのが、嫌だった。アルファもオメガも関係ない。使えるものを、ぜんぶ使って、出せるものはぜんぶ出して、賭けをして、それでも手に入らないなら、諦めたかもしれない……でも、僕のものにしたかった。雫が、僕にとっての特別であるように、雫にとっての特別になりたかった……」 「久遠さま……」  痛ましげな声で七月が久遠を呼ぶ。恒彦は冷たい眼差しで、雫らの様子を見ている。 「黙っていて、ごめん……雫、七月」  俯いて落ち込んでいる久遠は、まるで叱られた小さな子どものようだ。そんな姿の久遠を前に、雫は心の中で何かが切れる音を聞いた。 「……久遠」  級友に乱暴を働いた翌日、教室の隅でぐずぐずしていた雫に、最初に声をかけてきてくれた久遠の、変声期以前の鈴のような肉声を、今もはっきり思い出せる。久遠と親しく接するようになった最初の切っ掛けが、その出来事だった。そのあとも、何かと気にかけてくれて、雫と級友らの間を取り持ってくれたのも久遠だ。その久遠の優しさの根底に、こんなものがあっただなんて、思いもしなかった。恒彦の言葉は、久遠を信じる初期の遊戯が、仕組まれた紛い物だったと指摘する。  久遠を見ると、裁かれる直前のような昏い顔つきだった。雫は息を吸い込むと、ゆっくり恒彦を見据えた。恒彦の視線が雫に向くのを待つ。 (誰も、ひとりには、しない)  雫は膝の上で握りしめた拳に力を込め、強く念じた。 「お義父さまの言葉を否定できる材料を、残念ながら、今のおれは持っていません。でも……たとえそれが事実だったとして、何が問題なのでしょうか?」 「何?」  恒彦が目を眇め、今度こそ雫にピントを合わせる。  アルファを向こうに回すことの恐怖にオメガの何かが反応する。だが、雫は手の中に冷たい汗を感じながら、勇気を振り絞った。

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