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第35話 ラスボス(4/5)
「遊戯の最初が嘘だった。だから、久遠のすべてを否定するのですか? おれを守り、慈しんでくれたことも、数々の想い出も、愛情も、勇気も、すべてをなかったことにして、不誠実だと詰るなんて、おれはしたくないし、できません。おれと七月の裏切りを許してくれた思いやりや、影で見せまいと飲み込んでくれた葛藤さえ、嘘だと思うだなんて……できません」
恒彦に向き直る雫を、青ざめた久遠が恐るおそる盗み見る。こんな顔をさせるために、雫は久遠を受け入れたのではない。不安に揺れ、たまに見せる物憂げな表情に何が隠されているのか、ずっと不思議だった。雫は、アルファを畏れる気持ちごと、ごくりと唾を飲み込むと、淀みない声で恒彦に対峙した。
「真実だったら、すべてが美しいのでしょうか。久遠はおれのために嘘をついてくれた。孤立無援の教室で、初めて声をかけてきてくれた日のことを覚えています。彼がいなければ、きっと投げ出して、逃げ出してしまったかもしれないことが、何度もあったのに……。ちょっとついた嘘や誤魔化しでぜんぶが駄目になるなんて、おれは思わない。放たれた言葉に嘘が混じっていたとして、与えてくれたものにたまたま小石が混じっていただけの話です。本質は変わらないと、おれは思います」
「雫……」
振り返り、おずおずと顔を上げた久遠へ、雫はちゃんと目を合わせてから、恒彦に向き直った。
「人は誰でも間違うし、些細な嘘も、大きな嘘もつく生き物です。でも、嘘があるなら、それごと愛せばいいだけじゃないですか」
少し不謹慎かと思ったが、簡単なことすぎて、雫は言いながら笑ってしまった。恒彦は、唖然とした口調で疑問を呈する。
「ずっと騙されてきたかもしれないのに、今も、騙されているかもしれないのに、不愉快にならないのか? きみは……」
馬鹿でも見るような呆れた視線を向ける恒彦に、雫は苦笑を浮かべる。確かに、馬鹿なのかもしれないが、久遠にそうされるなら、全然よかった。
「そんなもののひとつやふたつで切れるような脆い絆は、おれたちの間にはありません。そんな柔な愛され方は、していません」
「雫、きみ……」
まるで夢から覚めたみたいな表情の久遠を、今度こそちゃんと受け止めようと、雫は久遠の握りしめられた手を取り、視線を絡めた。
「過去がどうでも、久遠の愛情を受けてきたおれにはわかります。だから、おれの前で、久遠を貶しても無駄ですよ。気持ちは変わりません。おれは久遠と離れたり、別れたり、しない。久遠がおれを、愛してくれている限り……」
言葉を重ねるごとに、久遠が泣きそうに表情を変える。そんな久遠の手を握り、恒彦に相対すると、震えていた小さな少年のもののように思えた手が、おずおずと指を絡めてくる。雫と指を重ね合うと、それはもう大人の、ごつごつした大きな頼り甲斐のある久遠の手に生まれ変わっていた。
「許す、というのかね?」
まだ信じられない口調で確認する恒彦に、雫は微笑んでしまった。
「許すも何も……ずっと許されてきたのは、おれの方です。クラスで孤立した時も、オメガと判定された時も、大人になったのに発情期が訪れず、自暴自棄になりかけていた時さえも、今日だって……おれたちの間に想定外の事件が起きるたびに、久遠は我が儘をきく声で、許してくれるんです。でも、問題はそこじゃない。過去は変えられません。でも、久遠と出会って、おれの未来は変わりました。鮮やかに」
こんな素晴らしい関係を、久遠が雫と繋ごうとしてくれていること自体が、奇跡じゃないかと思わずにいられない。ふたりで見つめ合い、恒彦に視線を返すと、不寛容で難しい表情のまま、沈黙した。
「外野は色々、言うでしょう。でも、人の噂も七十五日と仰ったのはお義父さまではありませんか。おれは、久遠と七月が欲しい。欲張りだけれど、誰が欠けても駄目なんです。生涯をともに生きたいと決めた以上、誰に何を言われても、おれはふたりの味方です」
静かにそう続けると、とうとう恒彦は長いため息をついた。
「オメガというのは……欲深いな、まったく」
恒彦の視線が、呆れを通り越し、何か面白いものを見る目つきに変わる。雫は、それが不快ではなかった。ずっと自信がなく、おどおどと相手の望むものを探り続けてきたのは、もう過去のことだった。
「……よく言われます。でも、それはオメガだからというより、おれの特性なのかもしれません。おれは、普通より些か欲が深くて、変……なのかもしれません」
雫が肩を竦めると、恒彦は脇に追いやったグラスを持ち上げ、液体を飲み干し、唇を曲げた。微笑んだのかもしれなかったが、確認できなかった。
「ふん……きみが久遠をどう思っているか、具体的に気持ちを明らかにするのは、今が初めてだな? てっきり音瀬の操り人形が、西園寺に食い込もうとしているのだとばかり思っていたが……とんだ野暮だったようだ」
雫はその時、西園寺家で自分が冷遇され続けてきた本当の理由を悟った。家同士、旧家同士とはいえ、西園寺家と音瀬家では格が違いすぎる。雫自身が西園寺家を乗っ取る工作員として入ってきたものだとみなされ、警戒されていてもおかしくはない。
「だが、二年で子どもができずに、私に土下座することになっても、知らんぞ」
皮肉にしてはどこか嬉しそうな恒彦の言葉に、雫は釣られて、少し笑ってしまう。
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