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第36話 戦いを終えて(1/2)

「斎賀に、資金の目処がついたことを報せてきます」  インペリアル・スイートに戻ると、七月は別行動になった。調達資金を得られたからこそ、細かな打ち合わせが必要なのだろう。あるいは、エンジェル投資家になった久遠に、気を利かせたのかもしれない。雫は、久遠が予想以上の大金を動かせることに、今さらながら驚いていた。 「昔、バイトで貯めた分を運用しているだけだよ。見様見真似でやっていたら、そこそこ利益が出たんだ。とはいえ、自己資金だけじゃギリギリだし、七月らの事業が育てば、西園寺グループとして、さらに増資を考えるだろうから、持ち株比率は、いずれ弄ることになるだろうけれど……。父の承諾があれば、役員会議でも話が通りやすくなるからね」  言い訳をするような照れ方で、久遠はけろりと白状した。雫が機会と捉え、披露宴会場で恒彦に何を耳打ちしたのか尋ねると、久遠は少しだけ哀しい顔をした。 「「F」の件で話がある、って言っただけ。改竄記録は見つかったけれど、命令元までは辿れなかったから、カマをかけたんだ。やっぱり、父が関係していた」  メインルームは、香しい白百合の匂いに包まれていた。ローテーブルの上に結婚祝いの豪奢なフラワー・アレンジメントが飾られ、メッセージカードが添えられている。氷漬けのシャンパンボトルが二本、グラスが二脚。それと、箱入りのチョコレートが置かれていた。 「これって……」 「式場側が、気を利かせてくれたんだろう。……やっぱり発情促進剤が入っている。きみはもう、口にしない方がいいだろう」  ボトルの裏面を見て呟いた久遠は、ネクタイを緩め、ため息をついた。やっと、長い一日が終わろうとしている。途中、どうなるかと気を揉むばかりで、たくさん驚いたが、今朝より夜の方が安心しているのが不思議だった。 「久遠」  ソファに腰掛けた久遠に倣い、雫も隣り腰を下ろす。 「その……ありがとう。おれと一緒に七月を選んでくれて……感謝している。きみには許されてばかりだ」  オメガとともに生きる決断は、差別と偏見に立ち向かい、災難を引き受ける覚悟がいる。好き合いながら、向かい風に耐えられず別れを選ぶアルファとオメガも少なくないと聞く。オメガだとわかるずっと以前に、久遠は雫を選んでくれた。久遠がまっすぐ欲しがってくれるから、雫は、揺らいでも、迷っても、どうにかやってこれた。 「僕の方こそ」  久遠は雫の肩を抱き、引き寄せると、少し低い声で話し出した。久遠からフェロモンの匂いがわずかに香り、雫を高揚させる。 「七月はこれから世に出る製薬事業のスタートアップの、いわば顔になる。最初は僕個人だけれど、西園寺グループが動くとなれば、今後、何かと露出も増えるだろう。その上、僕らは前例にない、三人で生きてゆく道を選んだわけだ。世間の反応も、しばらくは過剰なものになるだろう。できる限りのサポートはする。でも、覚悟はしておいてくれ」 「おれなら……」  雫が「大丈夫」と言いかけた矢先に、久遠が少し笑う。 「きみの「平気」は、平気じゃない時にしか出ないだろ?」  七月と同じことを指摘され、雫は面食らい、少し反省した。 「うん……でも、これからは、三人で戦っていけるから……」  心強いことだ。だが、雫が言葉を継ごうとすると、久遠は急に俯いた。 「ああ、その通りだ。……だけど、違う。こんなことが言いたいんじゃない。本当は」 「久遠?」 「今日ほど、父の言葉が堪えたことはない……僕がきみに、誘拐未遂事件をでっち上げたことを黙っていたと見抜かれて、もう終わると思った。なのに、きみは許してくれた。きみの傍にいられる幸せを、これほど尊く思ったことはない。黙って騙して、知らないふりをしていて、本当にすまなかった。きみも七月も、あの後は大変だっただろうに、僕は……」  自分勝手な欲望を優先させたばかりに、七月にも雫にも負荷をかけ、いらぬ憶測の的にしてしまったと悔いる久遠に、雫は身を預けたまま、首を横に振ってみせた。

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