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第36話 戦いを終えて(2/2)
「おれは、久遠にもらった分を、ちょっと返しただけだよ」
貸し借りで測れば、雫の負債が募るばかりだ。久遠の器の広さを、雫は未だにちゃんと把握できているのかすらわからない。でも、相手が久遠だから今がある、という確信は揺らがない。
「久遠が時々、思い詰めた顔をするのは、なぜだろうとずっと思っていたから……。理由がわかって、すっきりしたし、もらっている割り合いなら、全然おれの方が多いよ」
久遠が安らげる止まり木ぐらいには、になりたい。大きな企業の頂点に君臨する身として、人に言えないような決断をしなければならない時が、これからも、あるかもしれない。だが、どんな時でも、傍で支えられるなら、望外の幸せだ。
雫の髪に指を通した久遠は、そっと呟く。
「雫。嫌な時、駄目だと思った時は言ってくれ。僕も、もう、きみらにああいった隠し事はしないようにする。訊いてくれれば、できる限り誠実に答えるし、言えないことはちゃんと「言えない」と言うよ」
久遠が頭を雫の方へ傾斜させ、甘えてくる。こういうところが好きだった。雫は胸がいっぱいになり、ひとつだけ、と言い聞かせ、自分に疑うことを許した。
「ふたつ、訊きたいことがあるんだけれど、いいか……?」
「もちろん」
本当は怖い。でも、尋ねなければ後悔するとわかっていた。
「お義父さまに読ませた論文にあった、特定のオメガ、って、おれのこと?」
久遠は少し迷いを見せたが、すぐに頷いた。
「そうだ」
「つまり……その、七月と三人ですると、オメガであるおれの、妊娠確率が……上がる?」
「うん……。言い難いことだけれど、雫もまた、ある種の特異体質なんだ。だから僕と一緒なだけじゃ、なかなか発情までいかなかった。七月と揃うことで、初めてきみは、完全なオメガになるんだ」
「そっか……」
それこそ運命のようで、雫が思いを巡らせていると「ふたつめにも、答えるよ」と久遠が促す。わかっているような口調だったが、雫の言葉を待っている久遠を焦らしたくなくて、再び雫が尋ねた。
「誘拐未遂事件の他に、おれに隠していることって、ある……?」
雫の朽葉色の髪を梳く手が曖昧に止まり、しばらく考え込んだ久遠がやがて口を開く。
「ある……。一番、大きなやつは、誘拐未遂だけれど……周囲の人間関係を洗ったり、日常的に出かける際に尾行を付けたり、趣味嗜好や、何を話していたかを先生や同級生から聞き出したり。机の中のノートを盗み見たこともあるし、下駄箱を覗いたり、雫に変なことをしそうな奴を裏で止めたり……。きみへの年賀状の送り主も、だいたい把握している。きみ宛てに届くダイレクトメールや、不適切な手紙は内緒で処分したり。今は、もうしていないけれど、一時はとても過敏だった。きみに嫌がらせをした同級生を割り出して、校外活動の際に遠回しに圧力をかけたこともあったか……。でも、それぐらいかな」
「それぐらいって」
思わず突っ込んだあとで、それほど嫌だと思っていないことに気づき、雫は自然と笑みが零れた。久遠に、これほど執着が強い一面があるとは、つい最近まで知らなかった。でも、当の本人に自覚があるのかないのか、表面上はけろりとしている。何より、雫自身、少し歪んだ束縛が、嫌いじゃなかった。
「わかった。信じる」
雫が軽く頷くと、久遠の指がまた髪を優しく梳く。
「人を信じすぎるところは、雫の美点でも欠点でもあるね」
心配してくれているのだろう。執着の自覚があまりない久遠にそう指摘されるのは、面白かった。
「これからは、他の人のことは、そんなに簡単に信じないよ。それに……結婚したら、名字も変わるから……」
名実ともに、久遠のものになる。
ずっと長い間、待ち望み、願い続けてきたことだ。
家族になるんだし、と言いかけた時、久遠と雫の携帯端末が一緒に鳴動した。
「?」
画面をタップした久遠がぽつりと漏らす。
「無事に婚姻届が受理されたらしい」
そっと久遠の指先が、雫の髪を梳いては離れる。心地よくて目を閉じると、久遠が囁いた。
「今夜からは、知りたいことは、きみに直接、訊くことにする」
「ん……」
きっと雫が意地を張ったら、泣くまで虐めてくれるのだろう。下火になったはずの促進剤の名残りが、熾火のまま燃えている気がする。
「そろそろ、いこ、久遠……」
目を閉じたままだと、そのまま落ちていってしまいそうで、雫は久遠の手を取ると、自らバスルームへ誘った。
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