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第28話

 大通りに出て、曲がったすぐそこにある建物に躊躇なく、彼は大股で入っていった。カードキーを入口とエレベーターで鳴らす。ここは、確かアルファ寮のはずだった。エレベーターに乗る前に、怖くて、足を踏ん張ると、彼は煩わしそうに舌打ちをして引きずりこんだ。後ろ手に最上階のスイッチを押しながら、僕を壁に突き飛ばした。痛みに呻いている間も腕は掴まれたままで、彼の足先はずっと細かく地面を叩いていた。  怖い。  握られた腕も、壁に打った背中も、痛い。でも、どこよりも、心が痛んだ。 (どうして…)  じわり、と涙が滲んで、エレベーターのカーペットにぼたぼたと沁み込んでいった。 (僕のこと、嫌いじゃないの…)  僕のことなんか、いらないんじゃないの。  ベータの僕なんか、何にも役に立たない。  さくには、あのオメガがいるのに。  先ほど見た、熱烈な恋人のキス。  あれは、どう見たって、愛し合う恋人の空気だった。あのオメガの、うっとりとした恍惚な表情を思い出すと、胸が痛む。 (苦しい…)  この胸の痛みは何か。稚拙な僕にはわからなかった。  一瞬、そこは僕の場所なのに、と美久に思ってしまった。そういう自分の図々しさや浅ましさが、大嫌いだった。 (ベータの僕が、一緒にいちゃいけないのに…)  エレベーターが軽やかに到着を知らせると、開ききる前に彼は足を進める。エレベーターを出る前に、入口に手をついて踏ん張る。 「やだ…っ」  首を横に振って伝えると、彼はさらに眉をきつく締め、赤ら顔で怒鳴った。 「お前に選択権はない!」  いいから来い!と、骨がぎしりと痛む強さで腕を引かれて、転びそうになりながらも僕には逆らう術がなかった。彼に怒鳴られて、完全に委縮してしまい、身体はがたがたと震えていた。フロアには一室しかなく、唯一あるドアにカードをかざすと、すかさず凄まじい力で引き寄せられ、室内の壁に押し付けられた。背中が鈍く痛んでいるのに、耐えていると、顔の真横を何かが空を切った。そして、大きな音を立てて、彼の拳が壁にめり込んだのだとわかる。 「どれだけ、俺を裏切れば気が済むんだ…」  項垂れて、低く呻くようにつぶやく。長い前髪に邪魔されて、顔は見えない。しかし、僕の身体は恐怖でいっぱいだった。今、真横にある拳が、もし当たっていたらと思うと、膝も震えて、今にも崩れてしまいそうになる。だんだん呼吸も、か細くなっていく。 「こんなにニオイをつけて…何をしてもらったんだ?あ?」 「何いって…いっ!」  彼の言っている意味がよくわからずにいると、肩を強くつかまれて、身体を反転させられる。頬が壁にぶつかり、痛みに耐えている間に、スラックスを下着ごと脱がされる。 「なっ、やだっ」  怖い。何をするの。  目を見張ると涙が散った。振り返ろうとすると、頭を大きな手のひらで押さえつけられてしまう。項に高い鼻先が辺り、すん、と匂いを嗅がれる。 「俺以外のニオイをつけて、このエロい身体を慰めてもらったのか?」 「いやっ! やめ、て…っ!」  何もつけていない蕾に、彼の指が突き立てられる。痛みに脂汗が滲み、肩がすくむ。内腿も、恐怖で細かく揺れている。内臓がせり上がるような苦しさで胸がいっぱいになってくる。それでも、その指はぐるり、とナカを一周する。生理的な涙が零れた時、その異物は身体から抜かれる。  安堵に、何とか呼吸が出来て、身体に酸素を送る。頭がくらくらしてきた。 「なんでだよ…」   目の前を素早い物体が横切り、ゴツッ、と鈍い音がした。後ろで彼が低く何度もつぶやく。同様に、彼の拳が壁にめり込んでいく。その状況に気づく頭になった頃には、壁には血の痕が付き、もう片方の腕で、僕は彼に抱きしめられていた。 「お前にちょっかい出す野郎、全員ぶっ殺す…」  後ろで、かすれた震える声で、独り言のようにつぶやかれた。壁には大きな亀裂が入り、彼の拳が当たっている部分はすっかりへこんでしまっていた。ぱらぱら、と破片が床へと落ちていく。同時に腕を伝い、彼の肘から血がしたたっていることにも気づいた。ぎゅう、と抱き寄せてくる彼の手は僕の肩を優しく撫でる。そして、彼の顔が乗る肩口が湿っていることにも気づいた。 「…俺をバカにして、楽しいかよ」  項垂れた彼が、息を詰まらせながら囁く。そして、自嘲しながら、もう一度壁を殴った。  僕は思わず、その腕にしがみついた。関節は皮膚が捲れて肉が見えていた。それでも、彼はまだ壁を殴ろうとしていた。それが、あまりにも痛々しくて、僕の身体は勝手に動いてしまったのだ。 「離せ…」  僕を振り払おうと腕が暴れるが、離していけないと必死にしがみついた。きっと、彼が本気を出せば、僕なんか簡単に吹っ飛ばせただろう。しかし、彼はそうしなかった。できなかったのかもしれない。  今朝、彼の部屋できれいにアイロンまでかけられていたハンカチをポケットから出して、傷口に巻いた。彼は、もう力なく、されるがままだった。 「お前をヤリ捨てした男だもんな、俺は…」  ハハ、と乾いた笑いを上げる彼は、あまりにも弱々しかった。抱きしめていた腕の力が弱まったので、彼と向き合うように振り向く。顔を真っ青にして、笑う彼は痛々しかった。 (どうして、そんなに傷ついているの。傷ついたのは、僕なのに…)  言い出したかったけれど、言えなかった。  さっきまであんなに怖かったのに、僕は血まみれの手を離すことが出来なかった。 「僕…そんな風に思ったことないよ…」  長い前髪を横に払うように、ゆっくりと震える指で触れる。ぴくり、と彼は眉を動かして、一歩下がった。人差し指にかかった前髪は、そのせいではらりと落ちて戻っていった。  彼の顔がどんどん皺を寄せて、ゆがんでいってしまう。 「昨日のあれだって、俺を油断させて逃げ出すためだったんだろ…っ」  嘘つき。  そう彼が言い放った瞬間、彼の鋭いまなじりから、一粒、涙が零れた。 「さく…」 「呼ぶなっ!」  彼が涙をしているところは初めて見るかもしれない。  思わず彼を呼んでしまう。その涙を拭おうと手を差し伸べると、思い切り手を払われて、その勢いで僕は後ろにバランスを崩して、壁に肩をしたたかに打ってしまった。それでも、身体を痛めた僕よりも、彼の方が数倍、つらそうな顔をした。彼は、自分の行いに気づき、目を見張って、きつく目をつむった。その瞬間、また涙が彼の頬を伝った。  僕の白いハンカチは、もう真っ赤に染まっていた。その手のひらで、彼は自身の顔を覆い、俯いた。 「もう、帰ってくれ…」  君が嫌がる僕を連れてきたんじゃないか。  それなのに、どうして君が帰れと言うの。  言ってしまいたかった。  それでも、僕は目の前の男が、五歳の少年のように見えてしまうのだった。項垂れる彼を、そっと抱きしめた。 「やめろ…お前に同情されるのは懲り懲りだ…」  言葉にはするが、彼は僕の腕の中に大人しく収まっていた。低くなっている頭に、僕は顔を寄せた。出来るだけ優しく、彼の髪の毛に指を指しこんで、頭を撫でる。  泣かないで。  さっきまであんなに怖かった彼は、僕の腕の中で小さく震えて泣いている。本当に子どものようだった。 「もう、お前を傷つけたくない…」  僕の腕を、縋るように握りしめる。前髪の隙間から、雫が光に反射して、きらり、と光った。 「俺は、お前のことになると、おかしくなる…」  細く揺れる熱い吐息が僕の首筋を撫でた。  彼が愛おしくて、涙が出る。喉がきゅっと締まって、目の奥が痛い。また強く彼を抱き寄せて、僕は静かに涙を零した。 「それなのに、お前を手放せないんだ…」  彼は腕を僕の背中に回して、シャツをきつく握りしめた。胸元に彼を抱き直して、頭を撫でる。すり、と甘えるように頬を僕の頬に擦りつけた。  耳元に、吐息を吹き込むように、聖、と名前を呼ばれる。大切に、宝物のように、呼ばれるのだ。ゆったりと身体が離れると、高い鼻梁が僕の鼻先をくすぐるように重なる。頭から、耳を通り、するりと彼の頬を撫でた。涙ですっかり湿ってしまった頬を手のひらで包むと、彼はその手を握り、擦りつくようにキスをした。 「俺以外、見るな…」  いつも自信満々につり上がっている眉は、情けなく下がっている。彼の瞳は、涙に濡れると、たくさんの光を集めて、朝日を受けた穏やかな海のように透き通って輝いていた。 「聖…」  こんなにも美しく、誰もが認める帝王が、僕の手に必死に縋って泣いている。ずっと、ずっとずっと、大好きだった彼が、僕の手のひらにキスをする。 「俺の傍にいてくれ…」  思わず、うなずいてしまった。  僕が、ずっとずっと、焦がれていた言葉だったから。  僕が、ずっとずっと、望んでいたことだったから。  彼は、涙を指で掬うと、優しくふんわりと僕を抱きしめた。それを受け入れるように、彼の背中に手を回すと、一層強く抱きしめられる。 「聖…、聖」  しばらく、そうやって僕たちはお互いの身体に揺蕩っていた。  彼の高い体温や溶けてしまいそうに熱い吐息、そして輝く涙によって、僕は胸がいっぱいで、大切なことが抜けていることに気づけなかった。ただ、今だけは、彼の腕の中で、大好きな彼に必要とされていることを味わっていたかった。

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