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第8話 歩み寄るインシデント

 毎日、朝早くに来て掃除をしてると教えてくれた。  普段はさすがに一時間早くはやってないらしい。  ――今日は、っていうか、昨日から、本社の偉い人が来るから、汚いとビミョーかなって、思って。  そう、その「偉い人」の前で素直に言ってしまう枝島がおかしくて、つい、笑ってしまった。  いつもは始業の三十分前に来て、掃除をしてる。大体、課長もその時間に来ている。女性社員の斎藤さんは子どもがいることもあって、いつもギリギリくらいになるらしい。  若いのに頑張ってるな、と呟いたら、目を丸くして少し驚いた顔をしてから、聞き取れないほどの小さな声で返事をして、また俯いた。その耳が確かに赤くて「かわいいな」なんて思った。  しっかり掃除を一時間近く。  それでも古びた機械が新品同様になることはないけれど、機械がもしも話せるのなら「さぁ今日も頑張るぞ」と言ってくれそうなくらいには綺麗になった。  そんな一仕事を終えた頃にそろそろ始業時間で、俺たちは掃除を終え、二階へと向かうことにした。 「枝島はどうしてここの工場に?」 「あ……大学で建築とインテリアの勉強してたんで」 「建築?」 「っす。それで、ここ、受けて受かったんで」 「他は?」 「ここ、決まったんで、特には」  もったいない、と思った。  それならもっといい会社入れただろうに。建築とインテリア、その類の学科を学んでうちの本社に入ったのなら、多分デザイナーや設計の方に回れる。 「そっかぁ」  何もほったて小屋で毎日古びた機械のメンテと掃除をしなくてもいいのに。 「あの、久喜課長」 「?」 「席、あそこで大丈夫っすか?」  どうかしたのかと思った。真剣な顔をしてたし、今、仕事の、進路的なことを話してたし。だから、少し身構えたんだ。  毎日一人でやる清掃だってしんどいだろう。適当な雰囲気のある従業員に、場末のような工場、若い子には嫌気がさすこともあるだろう。仕事、辞めてしまいたいと思ったのかと。 「あの……」 「な、に?」 「いいんすか? その……わかんないっすけど、フツー……偉い人が俺の席に座るんじゃ」 「?」 「あの、机っす。二階の」  そう言って、今、一階の工場から二階の工場へ上がっている途中、あと少しで辿り着く、デスクのあるフロアの方を指差した。 「…………っぷ」 「!」 「あはは」 「?」  本当に話し下手だな。俺が笑うと、首を傾げて困った顔をしているだけ。普通、話かけて、その相手が急に笑ったら、どうしたんですか? の一言くらいありそうだけど。それもなしで、笑っている理由がわからず戸惑っている。 「いや、いいんだ。俺は、別にここに短期間いるだけだから、あそこで充分。デスク借りれるとは思ってなかったくらいだから、むしろありがたいよ」  デスクなんて用意もされてないかもしれないと思ってたくらいだし。  それでも、笑われたことが腑に落ちなかったんだろう。まだ不思議だって顔をしながら、こっちをじっと見つめて、納得のいく答えはないのだろうかと探っている。 「偉い人って、俺は別に全然そんなつもりないよ。だから気にしないで」 「だって、若いけど、課長って」 「まぁ、若い、かな。三十だから」  確かに同じ課長にしては風貌が全然違うかもな。 「……あの、だから、席」  面白いな。枝島って。 「いや、いいんだ。こっちの方が二人のことも客観的に見える気がするし。 「……」 「それより、枝島君」 「?」 「下の機械の掃除もだけど、デスク、ちゃんと整理していて意識高いと思ったよ」 「!」  無口だし、多分通常運転の時は無表情がものすごくて。綺麗に整った顔だと無表情なのは近寄り難い印象さえ与えるけれど。でも、ほんの少しでも突ついたら、それだけでパッと表情が変わる。手に取るように、何を思ったのかがわかって、面白かった。  だからまた笑った。あまりにも不器用なしゃべり方がおかしくて、つい笑って。笑われたことに枝島がまた不思議そうに顔を顰めて、首を傾げて。 「と、ぅわっ!」 「!」  突然、ガクンと落ちそうになった。後ろを振り返って枝島と話ながら階段を登ってたから、足を踏み外したんだ。  バランスが崩れて倒れそうになったけど。 「っ」  階段を転がり落ちることはなかった。 「大丈夫っすか」 「ぁ……あぁ、ごめん」  後ろにいた枝島が手を掴んで、受け止めてくれたから。  けど、びっくりした。  一瞬止まった心臓が、大慌てで今うるさいくらいに動いてるのがわかる。 「すまない」  すごいな。俺、まぁ、太くはないけれど、それでも男だぞ? 受け止めて、びくともしないなんて。 「枝島?」 「……」 「悪い。足とか、捻ったか?」  少しもグラついてはいなかったけれど、枝島がどこか一点を見つめて目を丸くしたまま、無言で固まったから、足でも挫いたのかと思った。 「枝島?」 「!」  覗き込むと、はっと表情を変える。 「す、すんませんっ」 「あ、あぁ」  どうしたんだ? 「ぁ、あの、久喜、課長って」 「?」  そこで人がまたどっと降りてきた。  気だるそうに挨拶をしながら、数名が談笑混じりで階段を降りていく。製造部の社員だろう。俺には「おはようございます」だったけれど、枝島にはもっと砕けた口調で「おはよー」と言っていた。 「枝島?」 「ぁ……いえ」  そこで目を伏せられてしまった。  何に一瞬驚いたんだ?  何か、見つけて。 「?」 「毎朝の朝礼っす」 「あ、あぁ、行こう」 「っす」  何か、言いかけた。 「あ、久喜課長、おはようございます」  まだ、この時はわかってなかった。 「あ、課長、おはようございます」 「枝島君と掃除してくれていたんですね。ありがとうございます。それでは部署の朝礼を始めます。あ、久喜課長、毎朝、やってるんです。これ」 「えぇ、さっき枝島君から聞きました」 「そうでしたか。あはは」  これっぽっちもわかってなかった。 「えーそれではまず、明日、ですね。水曜なので、いつも通り、ノー残業推奨水曜日ですので」  この先、ちょっとだけ先。 「明日、久喜課長の歓迎会を開きたいと思います」  明日、第二のインシデントが待ち受けているなんて。 「時間は! 十九時から!」  思いもしなかったんだ。

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