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第10話 怒涛とはまさに
空、耳?
「今、なんて?」
はち、って聞こえた。
はちさんって。
けど、それは俺のSNSの呼び名で。
もちろんそれをリアルで知ってる奴なんていない……はず、で。
「はちさん……」
「!」
空耳、じゃない。
は?
なんで?
知って?
でもあの垢、だってあれを、知ってるってことは、俺のフォロワー? じゃあ、ゲイっていうことなのか? いや、ゲイじゃなくてもフォローしてる場合もあるかもしれないけど。あの垢をフォローしてるってことは、でも、そういうことになるだろ? 男の裸を見たいとか、そういうことに。
って、今、そこじゃないだろ。問題は。
大問題だ。
というか、どうしてバレた? いや、バレたのか? いや、とにかく、ここで知らないフリしないとだろ。はい? 誰のことって。
「手」
「!」
俺の心の中で混乱って名前の嵐が吹き荒れてるのとは正反対に、静かで落ち着いた低い声がボソッと呟いた。
「ほくろが、同じとこで」
「……」
手、の?
「たまに、はちさんが上げる自撮りの」
「!」
「たまたまかもしれないしって、思いつつ。でも、出張だって、はちさんが呟いてたタイミングとか同じで久喜課長がこっちに来て。けど、そんなの同じになることなんてあるだろうしって思ったりして。けど、やっぱ、ほくろがっ」
手の、人差し指の付け根の辺りに確かにほくろがある。
だけど、たったその一つ、しかも別に目立つほどのものでもない黒い点一つで、そんなの気がつくか? よっぽど見てないとわからないだろ。
それだけ、枝島は俺の写真を――。
「俺、ずっと、はちさんのっ、」
「いやいや、酔い潰れた人がトイレにいて大変でした。それで、その酔い潰れた人を看病してた方が! なんと! あれ? 斉藤さんは?」
「「!」」
ヒョコっと戻ってきて、この空気を見事にぶった斬った課長に、ふたりして飛び上がった。
課長は俺たちの様子も気にすることもなく、空席になっている斉藤さんのところを眺めて、不思議そうな顔をした。
「あれあれ……トイレかな」
「あ、いえ、電話を」
「あぁ、そうなんですね」
呑気な口調で。
「それでですね! 枝島くん! あ、課長も! さっきお話に出たデザイナーさん! ものすごい偶然なんですよ」
課長は、そんなことよりもすごいことがあったんだと目を輝かせて、半個室になっているここからでは見ることのできない通路から誰かを手招いている。
「あはは、課長、けっこう酔ってます? 課長もって、ご自身がその課長じゃないですか」
そんなテンションのやたら高い酔っ払い課長とは全然違う、落ち着いた余裕のある声が、その手招いている通路から聞こえて。
「こんばんは、そこで偶然、課長に……」
俺は、ハッとした。
「あ……こんばんはっす、越谷(こしがや)さん」
半個室に、課長と枝島、の他に、もう一人がいることに気がつかず、にこやかに入ってきて、そこに俺がいることに、そいつもハッとした。
――治史。
「……ぇ、なんで、ここに」
お互いにそう思ったよ。
なんで、お前がここにって。
「いやいや、トイレを出たらちょうど越谷さんに遭遇して。あ、久喜課長、こちら、さっき、このお店を紹介してくれたデザイナーさんのこと話したじゃないですか。こちらがその」
そうだった。
「デザイナーさん、なんですよ。いやいや、こんな偶然あるものなんですねぇ。ね! 越谷さん!」
「え、えぇ……」
こいつは。
「あそこで僕がトイレから出て来なかったら、そして、あそこで酔いつぶれた人がいなかったら遭遇しなかったですよ。運命かもですねぇ、なんちゃって」
「そ、そうですね」
越谷、達也(こしがやたつや)は。
「こちらの方はですね! すごい方なんですよ。うちの椅子製造技術を気に入ってくれてまして! ね? 越谷さん!」
「え、えぇ」
同じ大学で、寮生で、建築デザイン科、だったっけ。
――治史。
けど、こんな低くて大人びた声だったっけ。
インシデント、とは、出来事、事件等を指していう言葉で、近年ではアクシデント、重大な問題の一歩手前レベルの出来事のことをそう呼んでいる。
――人生には、もうこれはダメだ、と思える、人生の転機になるようなインシデントが三度やってくるんです。
三度か。そのひとつは大学の時。
――誰にでも三度。
それなら、これで残りの二つ、遭遇したんじゃないのか?
なんて。
そんなことを思った。
忘れてた。確かにこいつも建築関係の学科だった。
あいつがデザイン関係で、俺は造形のほうで。デザイン性と実際に使う家具としての品質について、たまに一緒に講義に参加することもあったっけ。
もう二度と会うことなんてないと思った。いくらこっちにあいつがいるとしたって、まさか、そんな偶然そうはないだろって思う。
あの工場と取引のあるデザイナーだったなんて。
「あの、越谷さんと知り合い……」
エンモタケナワ。
歓迎会はお開きとなった。
斎藤さんはその場に旦那さんが迎えに来て、楽しそうな課長とは現地解散となった。
残った俺と枝島は、ふらりぷらりと歩いて、酔っぱらいをかわしながら駅へと向かってる最中で。
「んー……まぁ、大学の、な」
達也は席を外してるものでと言って、会釈だけして、早く戻りたそうにどっかに消えた。
もちろんお互いに知らないふり。
お互い気まずいし。
そりゃそうだ。
俺たちはただの大学時代の友人じゃない。
あいつにとっては本命である彼女がいたにもか関わらず「つまみ食い」をした相手で。
俺にしてみたら彼氏、かと思っていたのに、友だちでもなく、ただのセフレでしかなかった相手。
課長が俺たち相互の自己紹介を楽しそうにしてくれるのを、ただ苦笑いでやり過ごすよりほかなかった。
「あのっ! はちさん、なんすよね」
「……」
あいつとの再会は俺にとっては第二のインシデントになる、のかな。けど、ここで会ったからって、別に今後はもう本当に会わないんだろうし、俺の人生にとっての転機にこれはならないだろうから。
違うかな。
「……」
「ほくろ!」
問題は、こっちだ。
こっちはもう、第二のインシデントだろ。
まさかの、身バレ。
こっちのほうは社会的な生命の危機、だな。
違うよ。誰だ? それ。
そう答えよう。
そう答えてこの場をとりあえずしのごう。で、明日からの約三週間をどう乗り切るかはあとで考えよう。
「ちが、」
「俺っ! 童貞っす」
違うよ、と答えるはずだったのに。
「俺っ」
「……」
あんなに寡黙な口から、童貞とか。
「あ……ぁ……えっと」
あのクールな枝島の、低い声が慌てながら、童貞とか。
こんな道端で打ち明けるから。
「そう、だよ……はち、は、俺だよ」
そう、口が勝手に打ち明けてた。
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