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第26話 古惚けた初めて
予感が、する。
変わる、予感。
土曜は、うちで仕事をする。
大体、そうしてる。
基本、社外には全ての業務を持ち出せない。
新商品の情報、破格で材料を仕入れるルートなど、外に漏れたら企業的ダメージの多い事柄もあるからセキュリティーはしっかりしてるんだ。
だから実務じゃなくて、来週、どうやって工程を進めていくか。どれをどの人員で、どうこなしていくか、を考えながら家事をしてる曜日。
「……ぁ」
土曜はそういう日、なんだ。
今、時間は十時の二十分前。
駅前に、昨日も夜同じ場所で待ち合わせた場所に、いる。
枝島だ。
早くないか?
もうすでにいるなんて。
周りを一度見渡して、スマホをポケットから取りだして、じっと見つめてる。
時計を見てるのか。
メッセージを確認してるのか。
黒いTシャツに暗めのカーキ色のパンツ。足元はサンダルだ。色がダークカラーだからなのか、二十四よりもう少し大人びて見える。
何かメッセージを送ってくるかと思ったけれど、俺のスマホは大人しいままポケットで休憩している。
枝島は自分の足元を何度か確認して、それから自分の前髪を何度かかき上げて、またスマホを眺めて。
しまって。
今度は服を直して。
「……」
そして、俺を見つけた。
「おはようっす」
観察されてたことを知らずに、首だけ傾げて無愛想にも思える低い声で挨拶をした。
「って、おはようなら、さっきも言いましたけど。あの、なんで、顔赤いんすか?」
「! あ、これは、今、電車の中で聞いてた話を思い出して」
「?」
「じゃなくて、いや、なんでも」
そう、さっき、おはようの挨拶ならした。数時間前に。
――おはようございます。晴れたっすね。
そう、寝起きの枝島が言って、笑って、寝癖のついた黒髪をかき上げた。それから朝飯を作ってもらって。俺は自炊ってしないから、すごいなぁ、その若さでちゃんと朝飯から自炊するなんてって感心して。それからビジネスホテルに一旦戻って着替えてから、ここに。
「どっか行きたいとこ、ありますか?」
「いや、ないけど」
「じゃあ、俺、水族館行きたいっす。いいっすか?」
いい、けど。
「なんか……本当にデートみたいだな」
「みたいじゃなくて、デートなんすけど」
「!」
そう、なんだけど。
そうだけど、さ。
「楽しいか?」
「?」
「いや、だって、相手が」
俺、だぞ。
「楽しいかどうかはわかんないっすけど」
自分で尋ねたくせに、その答えに少し気持ちがチクリとする。
ほら、そうだろう? 三十の男と水族館行って楽しいわけないだろ? って。
「デートなんてしたことないんで」
「……ぇ」
「誰とも付き合ったことないから、ないっすよ」
「……」
童貞、だっけ。いつも落ち着いてるから、忘れそうになるけど、そういえば恋愛に興味なかったって言ってたっけ。童貞で恋愛に興味がないのなら、デートも確かにしたことないよな。
「けど、めちゃくちゃ楽しみっすよ」
「!」
デート、はさ。
「俺も」
「……ぇ?」
ほろりと零れた独り言のようなそうでないような。
「お、れもっ、水族館なんてもう何年も行ってないから!」
聞かれてしまった独り言を大慌てで掻き消そうとする俺を、その言葉ごとじっと見つめられる。
「じゃあ水族館でいいっすよね」
「あ、あぁ」
俺も、だよ。
デート、はさ。
俺も、したことないんだ。あいつとは寮で酒飲んで話してセックスして、それだけだったから。あとはたまに大学の飲み会で一緒に飲んで、その後は、いつもどおり、して終わりだったから。
だから、俺も、初めて。
枝島も、俺も、二人してデートが初めてだな。
なんて遅くて。
なんてぎこちない初デートなんだろう。
でも。
「あ」
「枝島? どうかしたか?」
「海、近いからサンダルにしたんすけど、デートにサンダルって微妙すか? 九月だし」
しかも相手は上司だし?
「いいんじゃないか?」
俺の足元、革靴を見てから、じっと自分の足元を見つめる枝島の難しそうな顔が可笑しかった。
「大丈夫すか?」
「いいだろ。別に」
「けど、客先が来た時の立ち合い検査では作業服乱れのないようにって、前に言ってた」
よくそんなの覚えてるな。前に、新人が暑いからって腕まくりをしたことを注意したっけ。
「俺は客じゃないだろ」
「……」
俺がミーティングで話したこと、ちゃんと聞いてたんだな。
「デートなんだし」
「!」
楽しみなのか?
俺相手で?
初デートもったいなくないか?
「それからさ」
「? はい」
三十にもなって経験値ほぼゼロで、お前のことリードなんてこれっぽっちもできてない、まるで初心な中学生みたいな奴だぞ?
どんどんかけ離れていっている、だろ?
枝島が想像していた「はち」からは、どんどん。
デートなら、と、ちょっと革靴なんて履いてくる。足元をじっと見つめれば、随分と服装の雰囲気がちぐはぐな俺たちの足が並んでいる。気合い入れた初デートって感じにジャケットまで着て。相手はリラックスしていて動き回れそうな服装で。俺はまるでピアノの演奏会にでも出るみたいじゃないか? 下手くそなピアノの。
「俺も初デートなんだ」
「マジっすか?」
その言葉に顔をあげた。
声が、枝島の普段なら低く落ち着いた声がはしゃいでたから。
「!」
笑って、た。
たまらなく嬉しそうに笑っていた。
笑って、はちさんの初めてもらった、なんて、この古惚けて残り物みたいになっていた「初」に、頬を染めて喜んでいた。
喜んでくれて、嬉しかった。
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