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第34話 ただのキス
月曜日、普段の月曜日とは少し違う月曜日。
昨日の楽しさがまだどこか残っている脳内のリセットボタンを押したくなる。約一週間、こっちに来てそんなに経つのに、まだその週の半分しか使ってないベッドで、今朝起きながら、スマホを見て驚いた。
水族館の写真にたくさんコメントが来ていたから。
まぁ、あまりそういう写真載せたことないから。
デート、なんて言われてたし。
内緒、なんて言って誤魔化したけど。誤魔化すってことは、そうですって言ってるようなものだし。
そのやり取りを枝島は見たのかなぁ、なんて思いながら、今朝は出勤の準備をしてた。
嬉しそうだったし。
枝島。
今朝、やっぱり早い時間に出社していた枝島と検査機の清掃したけど。ご機嫌だった。鼻歌でもうたいそうに口元ゆるゆるで掃除してたし。
『そっちは晴れてるのかな?』
「えぇ、そうですね」
画面の向こうで品質部長が穏やかに笑っていた。
こっちは九月とは思えない夏みたいな空がいまだに広がっている。学生にしてみたら、まだ夏休みでいいだろとぼやきたくなるような夏の空に夏の雲。
本社のほうは台風がこの時期次から次に来てしまう。
今回は直撃らしく、出社できてない社員もいるようで、仕事が滞っていて出荷が危ういかもしれないらしい。もちろん、品質保証課は工程的には後ろにあるから、仕事が遅れたしわ寄せが全てここにやってくる。
部長が、これは大変だなぁと、そう大変でもなさそうな顔をして笑った。
優秀な人だ。きっと仕事の遅れもどうにかしてしまうんだろう。
台風だってもしかしたらどうにかできてしまったりして。
でも台風を見越しての人員配置をすでにやってはいると思う。
「納期とか大変そうですね。あぁ、そうだ。俺、急ぎでやっていた試験があったんです。移動日にもまだその検査実行していて、もう記録と実物の触診検査だけだったので新人に任せたんですけど」
『あぁ、それね。待ってて』
言いながら、部長が遠くに向かって名前を読んだ。新人の、俺が仕事を任せた相手の名前。
『あ、久喜課長、お疲れ様でーす』
「あぁ、お疲れ、検査なんだけど」
この新人が枝島と同じ年だったな。
普通、こう、だろ。
どことなく頼りなくて、何かと手がかかって。まだ仕事の経験値だけじゃなく社会人、大人としての経験値が足りなくて、見ててやらないとって思うくらいの。
『はーい。承知しました』
新人は俺が出した指示を全てメモに取ると、いくつか自分からも質問をして、メモを眺めて納得したらしく、数度頷いて、ぺこりと頭を下げた。そして、席を離れたと思ったら、また戻ってきて、メモを書くことに夢中だったんだろう。ペンをデスクの上に置いてきちゃって、と笑っている。その声が部長のパソコンのマイク越しに、オフィスの雑音と混ざって聞こえた。
『それで、工場のほうはどう?』
「そうですね。まず人員がそもそも少なすぎます」
『ふむ、でも仕事量は少ないだろう?』
「えぇ、でも検査体制も不十分です。設備も古く、不足してます。今後、こっちのジャンルだけでも任せるのなら、人員の増強は必須かと思います」
『……うーん』
その充分じゃない環境下で、一人。
『人の資質は?』
その時、ふと顔を上げると向こうから枝島がファイル片手に歩いてきて、真っ直ぐ視線がぶつかった。
俺は、今、二帖くらいの小さなミーティングルームでオンラインの打ち合わせの最中だった。
もう一つ大きなミーティングルームもあって、そのどちらもがガラス張りで中で何をしているのかはわかるようになっていた。
枝島はじっと、俺だけを見つめていて。
背が高いから、大股で早歩きをすれば少し威圧的にも見える。
そんな枝島から、耳につけていたイヤホンをしっかりつけるふりをしながら、ふと視線を外した。
「一人、まだ入ったばかりの新卒の男性社員がとても頑張っていますね」
『あぁ、自己評価テストで名前だけは把握してる。枝島くん、だっけ?』
「えぇ、そうです」
めちゃくちゃ見てたな。少し急いでる様子だった。今朝から始めた試験のことで、かな。
「彼は優秀ですね。足りない検査機器でどうにか品質を保証しようと考えて仕事しているようです」
そして、そんな新卒新人に今、俺は――。
そう内心、胸の内でだけこっそり囁きかけた。
『ダメぇ! お願い! その動画、消してぇ』
普通、こういう展開だろう?
『ヘッヘッヘ、これを旦那さんに見せてあげたらどうなるかなぁ』
『いやぁ、なんでも、言うこと聞きますから』
『ヘッヘッヘ、なんでも? なんでもって言ったね? 奥さん。ヘッヘッヘ』
この男優の笑い方……すごいな。ヘッヘッヘ、って本当に笑う奴見たことないけどな。もう少し、いや、いいけど別に。こういう動画に演技を求めてる人なんていないだろうからいいんだけど、でもやっぱりもう少しどうにかならないか? この嘘みたいに下手な演技。
俺もこういう演技をするとしたら、このくらいに下手になるのかな
『あぁ、ダメぇ、お願い』
でも、普通、こういう展開……だよな。
お前の裏垢見つけたぞ。ヘッヘッヘ。このアカウントのことを誰にも知られたくなければ、わかっているか? ヘッヘッヘ。
あぁ、どうかどうかそれだけは、ぐっ……う、あっ!
って、脅されてセックス、だろ
「……何、見てんすか」
脅されてないし。
「? 治史さん?」
合意の行為だし。
視線を今まさにコトを始めた動画から外し、枝島の方へと向ける。シャワーを浴び終えた枝島は真っ直ぐ、大股歩きで俺のところへやってきた。昼間のミーティングルームで目が合った時みたいに少し早歩きで、真っ直ぐ、威圧的にも思える歩調で。
「つけたら、これだっただけ」
「…………さっきのズーム? のミーティング」
枝島の会話は淡々としていて短くて、コロコロ会話が変わる。エロ動画を見てることはもういいのか。
「あぁ、本社の品質部長」
「……そうっすか」
「? 何?」
普通は、俺の裏垢で脅されて、身体で秘密を守って貰う対価を支払う流れだろ。
「いや、目、逸らされたんで気になった」
「あんなじっと見つめられたら、フツー逸らすだろ」
「っす」
もう少し頼りないもんだろ。新人なんて。
「あの、さっきの、よく見たことある久喜課長だって思ったんす」
「? オンラインミーティング?」
「っす、いつも品証会議で画面の向こうで見てた人が本当に治史さんなんだなぁって」
「……ぁ」
変な再確認だな。
「俺、この人と昨日デートさせてもらえたんだなあって」
させてもらえたって、どんだけなんだ。
「あの」
「?」
「なんで、ラブホなんすか」
「ビジネスホテルは会社で取ってるから」
「じゃなくて!俺の部屋があるじゃないすか」
それじゃあ、付き合ってるみたいだろ?
「…………なんとなく」
そんな適当な曖昧な返答に不服そうな顔してる。
「じゃあ、次は部屋、来てください」
「……」
次、があるんだ。
部屋に招かれて、まるで恋人みたいじゃないか。
とか、考えながら、キスをした。
脅されてないし、何かの対価でもない、ただのキスをした。
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