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第39話 落っこちちゃいたい

 もう……落っこちたい。  なぁぁんて。  昨日、枝島の作った晩飯食べて、セックスして、そんなことを……。 『久喜課長お疲れ様です』 「あ、あぁ、そっちは進捗どう? 一応、サーバー経由でそっちの状況も見てはいるけど」  オンラインで打ち合わせをしたいと本社の部下からメールが入ってた。了解と返事をして、小さなミーティングルームを借りて、部下のサインインを待っていた。  少し向こうはバタついているのかもしれない。  工場内での作業の際は帽子の着帽が必須だ。その帽子のせいなのか、髪がボサボサになっていた。 『あー……それが今週新しく検査機器を導入したじゃないですか』 「あぁ、もう稼働してる?」 『それが』  上手く稼働できてないらしい。  何度もトライしているが、どうにも検査結果に信頼性が得られないようで、今、みんなで頭を抱えてるところだと、溜め息混じりにチームリーダーが教えてくれた。 「じゃ、うちの課の井上君は?」 『それが、検査も手一杯で』  うちの課に機械メンテを引き受けてくれているスタッフがいる。その彼ならきっとどうにかしてくれるはずだけれど、その彼も今検査の仕事で手一杯らしく、いつ稼働までこぎつけられるか不透明な作業に従事する余裕はないらしい。  工程管理が万全になっていれば、井上君の仕事量を減らして、稼働までのセットを頼んでおけたかもしれない。とは思うけれど。どうやら工程管理があまかった。  人員全部を検査業務にあてがっているから、仕事の負荷率は百パーセントを超えている。  人員配置は俺がやってたからなぁ 「とりあえずこっちでも不動作の件に関しては調査してみるよ」 『本当にすいません』 「いや、いきなり任せたから。急遽で大変だったろ」 『本当です』  珍しくチームリーダーが弱ってた。あまりに素直にぼやくから少し驚いていたら。遠くから「あっ!」と声がした。  と思ったら、部下の背後から新人を含めた部下たちが顔をひょこひょこ出した。  そっか。  ちょうど向こうは休憩の時間だ。 「すごいな」  そう言って笑う画面の向こうで部下が口々に「元気ですか?」「こっちはめちゃくちゃ大変なんですよ」「そっちも忙しいですか?」「今週末の連勤、休日出勤ほぼ決定です」と答える隙間もないくらいに話しかけてくる。 『早く戻ってきてください。来週いっぱいまでですよね!』  それは。 「ぁ……あぁ、そうだよ。来週いっぱいまで。だから、それまで」  そこで向こうの休憩時間が終わった。みんながぺこりと頭を下げて画面の中から消えていく。それからオンラインで話していた部下も。 『じゃあ、とりあえず、もう少し調節頑張ってみます』 「あ、あぁ」  そこでオンラインの画面に「退室」の文字が残った。 「………………」  あ………………って、なった。  なんというか、なんていうのが最適なんだろう。  波一つない湖に、ぽちゃんと石が投げ込まれたような、小さな波紋がそこから広がっていくような、そんな感じ。  こっちでの仕事は三週間。それが終われば、向こうに戻るんだ。  向こうに戻って、俺は、いつも通りに。 「……」  恋愛をどこかに置いてきた自分に戻、る?  何もなかった。  仕事を五日間、もしくは六日間頑張って、それから休日に家のことをして、また仕事をして。  面白いことはないけれど、でも、平和で、平穏で、淡々と過ぎていく日がいくつもいくつも並んだ毎日。どの日もそう大したことはない同じような色をした毎日。  九月一日は学校が始まるんだっけ? あ、違うのか。今って夏休みいつまでなんだっけ? そう思いながら、新人の教育プログラムを組んで、会議と検査報告書のチェックをする。朝は一時間早くいってメールの確認。昼休みにもメールの返信作業をして、あっという間に夕方になる。  息の仕方もわからなくなりそうな悲しいことは起きないけれど。  胸が躍ることはなくて。  指先が痺れてしまうようなドキドキもなくて。  とろけてしまいたくなるような衝動もない。  ――コンコン。  いやだな。 「……」  そう思った。  そして、ミーティングルームのガラス窓をノックする音がして、そこには骨っぽい拳でガラス窓をノックした枝島がいて。 「……会議中にすんません。今、平気っすか?」 「あぁ……」 「ちょっと、検査が大変なんで、もしできれば一緒にやってもらえたら嬉しいっす」  いや。 「あぁ、わかった。今、ミーティング終わったところだから、すぐに行くよ」 「っす」  いやだな。 「下で待っててくれ」  ノートパソコンとマイクつきイヤホンを手に持ち、デスクに向かった。 「ちょっと、検査が立て込んでるみたいなので下に降りてきます」 「そうですか。すみませんすみません。よろしくお願いします」  帽子を持って、あとバインダーも、それから愛用しているネーム入りのペンと。急いで下に降りて、ゴミ屋敷かと最初思ったけれど、工場長との打ち合わせを重ねること数回、幾分か整った工場をまっすぐ突っ切って、奥の検査機器の場所へと向かう。 「ごめん。待たせた」 「いや、ホントは、ギリ一人でできるんす」 「? じゃあ、なんで」 「今は、こっちの人でしょ」 「……」 「今は、こっちの課長でもあるんで」 「……」 「久喜課長は」  ほら。 「だから、早くこっちに振り向かせたかったんす」  いやだな。  まだここにいたい。 「すんません。邪魔して」  まだここにいて。  落っこちたい。  ここで、恋に、ぽちゃんって。  落っこちたい。

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