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第49話 たったの一センチ

 恋愛事を意識するのが遅かったから。  恋愛をするのも遅くて。  だから何もかもが不慣れで、不器用で、下手だった。  苦手なんだろう。  恋ひとつ、思春期の頃にでもやっておけば、よかったんだろうけど。  ほら大人になってから自転車の練習をするとして、恥ずかしさと気後れが邪魔をするように。  恋愛もそう。  大人の自転車と同じ。  失敗して、転ぶのる恥ずかしいからと、もう練習すらしなくなる。  恋もしなくなる。  失敗したら嫌だからと、ひるんでしまう。 「……」  朝、先に目が覚めて、それを思い出した。  あの時もこんなふうに浮かれてたっけ、って。  苦くて、息苦しさの混じった記憶が、まだ半分眠っている頭の中でふわりと浮き上がるように思い出した。  ――おはよ。治史。  あいつのベッドで寝過ごした朝、人肌は案外ひんやりとしていて気持ちいいと知ったんだ。  ――寝ぼけてんだろ? 治史。  こんなふうに誰かと一緒に起きるの、いいな……なんて、思った記憶。 「……治史さん?」 「……」 「俺の腕、気持ちいいすか?」  枝島が笑ってた。  笑って、眠っている間にめくれたんだろう浴衣の袖、顕になっていた腕を撫でていた俺の手に手を重ねた。  肌はひんやりとしているのに、掌はあったかくて、それに挟まれた俺は心地いい冷たさと、この二週間で肌に馴染んだ体温とで、すごく気持ち良くて。 「治史さん……」 「ん……」  もう少し眠っていたいなって、そう思ったんだ。  もう少しだけ、このまま眠っていたいなって。 「治史さん……」  そう思った。  朝食を終えてホテルを出ると今度はそこから最寄り駅までバスで行き、その駅から今度は違うシャトルバスへと乗り換えた。  行き先はショッピングモール。特に何か買いたい物があるわけじゃないけれど、今日はここで一日、ショッピングデート、ってプラン、になっていた。 「勝手な想像っすけど、なんとなく治史さんって朝強そうに思ってました」 「そうか?」 「最初っていうか、課長、って思ってた時っすけど。なんか朝すげぇ、起きた瞬間からテキパキしてそうっつうか」 「今も課長なんだけど?」 「確かに。すんません」  クスクスって枝島が笑って、小さく頭を下げた。 「この食器、こういうのいいっすね」  言いながら枝島が手に取ったのは黒色の少し歪んだ菱形の大きな皿だった。それに合わせて小分けに便利な皿と、無骨なビアマグ。皿が繊細そうな作りの割りに、ビアマグは男っぽい風情があって、絶妙なズレが面白かった。バラバラに置いてあったらセットだとは思わないかもしれない。でも並べると黒地に鮮やかな瑠璃の差し色があって、急に統一感がある。 「あぁ、俺も和食器の方が好きだな」 「和食器……っつうんすね」  泊まったホテルは朝がビュッフェスタイルで、枝島は昨日の以上に元気にパクパクと食べていた。俺も腹は減っていたけれど、やっぱり枝島程は食べられなくて。  単純にその食欲を「すごいな」って褒めると、そんなことはない、学生の頃はもっと食ってた、なんて恐ろしいことを言っていた。 「うち、あんま食器ないんすよね」 「あぁ、確かに、でもそんなに一人暮らしなら必要ないもんな。うちも大してないよ。って、まぁ、枝島ほどちゃんとやってないから、ないの当たり前だけどな」 「飯っすか?」 「外食ばっかだし。朝は、まぁ、適当にパン食べるか、たまに何も食べないし」 「……」 「みんなには内緒な」  シー。  人差し指を自分の口のところに置いて、笑って見せた。  課員をまとめるはずの課長が外食ばっかりの、朝食抜き生活なんて、ちょっと威厳ゼロになるだろ? 「あ、ダイニングテーブルあるじゃん」 「……」 「ついこの間、ダイニングテーブルの大量出荷に合わせて検査しててさ」  枝島は椅子専門の製造工場だから勝手の違うテーブルに関しては、検査のイメージがわかりづらいんだろうな。 「ちょうどその時、飲み会があって、みんなでテーブルに関して話してたら、新人がビールこぼして、濡れ耐性とか見た方がいいのかもしれない、なんて飲み会の場で話しててさ」 「……」 「って、こんな時に仕事の退屈な話したな」  あははって、笑って、さぁ、次の場所にってその場を離れようとした。  本当に退屈な奴なんだ、俺は。恋愛を置いてきた俺は仕事ばっかりで、デートの仕方ひとつちゃんと。 「楽しいっすよ」 「……」 「俺、治史さんの話聞くのすげぇ楽しいっす」 「……」 「このテーブルいいっすね。このテーブルもきっとどっかの会社で、誰か検査したんすよね」 「……」 「その製品を何年も使い続ける人がいるって、想像して検査したんすかね」  言いながら、枝島が腰を下ろした。 「俺らが検査する椅子もそう思いながら検査するようになったんで」  それは。 「最初の頃、うちからそっちに送った検査結果の報告書を見て、治史さんがそう言ってくれたんす」  ただ検査を物量としてこなしているだけだと、絶対にクレームが発生する。大事なのは型にはまった検査じゃなくて、その製品を誰がどう使うのかを、イメージできるかだ。 「誰が」の誰を優しい人、苛立っている人、綺麗好きな人、その逆の人。 「どう使うのか」、は、どこで使われるのか。日差しがたくさん入る窓際なのか、比較的油汚れのあるキッチンなのか。 「誰かが想像したかも知んないっすね」 「……ぇ」  指先がちょこんと触れた。 「課長と部下でデートで、ここに座るかもって」  触れたのは指先、たった、一センチくらいのものなのに。 「……」 「貴方の話はなんでも、いつでも、どんなことでも、聞くのすげぇ好きっすよ」  そのたった一センチで、全身、抱き締められたように温かく、何かが満ちた気がした。

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