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第51話 タンスの奥に
本当に数日前まで落ちてしまいたいなんて思ってたのに。
「……おはよう」
もう、頭まですっぽり。
「……っす」
落ちてる気がする。
いや、気がする、じゃないよな。もう完全に、だろ。
「じゃねぇ……」
「? 枝島?」
「おはようございます」
ほら。
「あ、あぁ」
「俺、下で掃除してきます」
「あ、あぁ」
完全に落ちてる。
ただ真っ直ぐ見つめられただけで、目が合っただけでこの心臓の音だ。
「あ、待っ……俺も、掃除に行く、から、メール、終わったら、行く」
「……ありがとうございます」
ハキハキと低い声で、枝島にそう言われただけで、心臓が小躍りするくらいには、もう。
「はぁ、もう……なんで、急にあんなにはっきり挨拶するんだよ」
一人になったフロアでボソッとそんなことを呟いた。
そして、溜め息をひとつついた。
昨日はホテルに戻ったんだ。職場で取ったビジネスホテルに。
連休最終日、一日目はスパリゾートに一泊してから、二日目、ショッピングモールをぶらぶらした。本当にぶらぶらすばかりで、ろくに買い物はしなかった。唯一買い物をしたのは枝島の職場へのおみやげくらい。そういうところ律儀だよなって思いながら、俺は付き添った。枝島は十分吟味して、その横顔があまりに真剣だったからおかしくて笑ってしまった。
三日目はそのまま枝島の部屋で過ごした。触れ合って他愛もない話をして、映画なんか一緒に観たり。まるで本当に恋人同士がしそうな休日の過ごし方を楽しんだ。
ビジネスホテルに戻ると、少し他人行儀な感じのする自分の部屋で荷物を広げることなく、そのままベッドに横たわった。本当に半分もいないかもしれない部屋とそう開けることがなかったスーツケース。それだけじゃない、ここがビジネスホテルだろうと、自分の、向こうにある住まいの寝室だろうと、「一人」なのは変わりがないはずなのに、違和感がするんだ。
枝島がいないことにさ。
寂しさを感じる自分がいた。
朝、目を覚まして、枝島に触れられなくて、触れるのはシーツだけ、しかも体温が少し残ってないのが指先にしっくりこなくて。
妙に寝起きがすっきりしなかった。というか、眠りが浅いというか、落ち着かなくて、ダラダラと無駄な寝方で、結局いつもよりも起きるのが遅くなってしまって。
「って、ぼんやりしてる場合じゃないっ」
朝、しかも週明け、一番メールが溜まっている曜日にも関わらず、出社が遅くなってしまった。
「っ、もう」
文句を自分自身にこぼしながら、足早で階段を駆け降りていく。
「わー、いいの? ありがとー」
「っす」
この声、枝島と。
「えー、お菓子、どっか行ってきたの?」
「っす」
前にもここで枝島と喋っていた、製造部の女性社員だ。
若くて親しそうで、俺はその時、少し、苛立っていた。
「枝島君からこういうのもらうの滅多にないよね。三連休で旅行とかいいなぁ」
「っす」
「けど、枝島くんってそういうのあんまり行かない人って、いうか、行ってもお土産とか買ってこない人だと思ってた。あああ! もしかして」
普段は女性のおしゃべりに大して何も思わなかったけれど、彼女の少し甲高い感じの声が少し神経を逆撫でてくる。そんな気がしてしまうのは、きっと俺がもう枝島のことを、さ。
「もしかしてさぁ、あの、意中の? のっ?」
今。
意中の、って。
「……」
枝島はその質問にだんまりだった。
どんな表情をしていて、例えば首だけ傾げて答えたりしているのはもわからない。俺は二人の会話を聞きながら、止まってしまったんだ。そのせいで飛び出すタイミングを見失って、角に隠れているから。
「ほら、ずーっと好きだって言ってた人」
「その人じゃないっす」
「えぇ、違うの? なぁんだぁ、ついに実ったのかと思った」
「……違う、っす」
「そっかぁ」
今、ふわりと浮いてしまった。足元が急に軽くなった。はしゃいだ。
と、思った次の瞬間、ずしんとその足元から地面にめり込みそうなほど重くなった。
それはまるでジェットコースターが高いところまでのんびりと上がって、上がって、そこから、カタン! という音がしたと思ったら、地面に向かって真っ逆さまに落ちていく感じ。
ずっと、ずーっと好きだって言っている人がいた。
俺はそれを、自分のことだと思った。
けれどもそれは違ってた。笑ってしまうほどの自惚れで自分のことだと思ってしまったけれど、その人じゃないと、この三連休を過ごしたのはずっと好きだった人ではないと今、その角の向こうで断言された。
ついに実ったのかと思ったって。
そのくらい片想いをしている人がいる。
けれど、それは俺じゃなくて。
あーあ。
ほら。
出てきた。
あの時も出てきた。
悪い虫。
だから言ったじゃん。
そう言って笑ってる。
だから、恋愛なんてしまっておいたんだろ? と笑ってる。
それなのに引っ張り出してさ。
もうしわくちゃになっちゃってるのに、、また、するの? って。
どっちが前で、どっちが後ろなのか、着方も忘れた「恋愛」を今更したって不恰好なだけなんだってば。若い頃に着てるとちょうどよかったデザインも色も、形も、歳が行けば行くほど若い頃のものなんて似合わなくなるに決まってるのにさ。
どうしてそんなの引っ張り出したかなぁって、ほら。
「あ、はるち……か、じゃなねぇし、久喜課長、ありがとうございます。掃除終わったんで、もう」
「あ、あぁ、そっか……ごめん。メールが溜まってて」
胸の奥の方で笑ってる。
早くそんなの脱いで、しまえって、笑ってる。
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