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第52話 溜め息
訊けばいいだろうって思うよ。
――ほら、ずーっと好きだって言ってた人。
俺のことかと思ったんだけど。
――その人じゃないっす。
違うんだなって。
――えぇ、違うの? なぁんだぁ、ついに実ったのかと思った。
「はち」をずっと追いかけてたって、ファンだったって言ってたから、そうかと思ったのに。
――違う、っす。
違うんだ、って。
訊けばよかったのに。でも、あんなに強く断言されたら、もう、尋ねる余地がない気がして、訊くことすら憚れる気がして。だから訊けなくて。
けれど気になって仕方がない。
まるで、ヒビの入った爪の先みたいに。
引っ張って、むしってしまったら、きっと痛いことになる。我慢して絆創膏でも貼っておけばそのうち伸びてちゃんと綺麗にカットできるけれど、絆創膏が近くになくて。指でとってしまいたい。
ことあるごとに引っかかって気になるから。
何度も何度も指でその引っ掛かりを確かめてはまた気になって。
気になって。
ダメになる。
それと同じようにずっと頭から離れない。
あぁ、そっか。
そう「痛感」したあの落胆を。
やっぱ、俺、じゃ足りないよなって。
あの時、達也のあの顔を見た時に虚しさと悲しさとかが蘇ってきて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
ぐちゃぐちゃなのに。
「いやいや、そりゃ広さも十分あればできるんでしょうけどね」
「ですからその広さを十分確保するためのルート作りをしないとなんです」
「そうは言ってもねぇ。仕事は次から次にやってくるでしょう? もう明日には次の注文も入ってる」
「本社からの仕事もそのうち押し寄せてきますよ、だからその前に」
「だからその前に、既存の顧客からの仕事を片付けないとでしょ? 通路の確保、作業場エリア、一、二、三の区画整理なんてしてる時間ないんですよ」
「いえ、その整理整頓も業務の一環なんです」
「まぁね、言いたいことわかるし、おっしゃる通りなんですけど、本社とじゃ生産スキルが雲泥の差なんでね」
だからその雲泥の差を少しずつ埋めて行こうと俺がこっちに派遣されてきたんだ。
そう言っても、工場長は「まいったな」と「厄介だ」が混ざった、不味そうな顔をしたまま腕を組んで、溜め息をついた。小さなミーティングルームがその溜め息でいっぱいになって息苦しいと思うくらいに大きな溜め息。
「……うーん」
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
今朝の枝島と、女性社員との会話が何度も頭の中でリピートしているのに、仕事の方までぐちゃぐちゃで。
「今、やっていただきたいんです」
品質保証課の方は歓迎してくれている感じはした。こう変えて行かなければいけないと指示や頼み事をすると、困難な場面もある中でどうにか「変化」しようとしてくれている。
けれど、製造の方はそこまで歓迎してくれている感じはしなかった。むしろ面倒臭いと思ってさえいそうな雰囲気は製造工場に足を踏み入れた時から感じていた。それにこれが一番の問題点だ。きっと製造課はどこよりも強いんだろう。まぁ、昔ながらの職人感が残っている感じ。デスクの上でだけ椅子のお絵描きをしている設計にはなぁんにもわからない。品質だ、云々だ、と出来上がったものをテストするだけで、作る大変さを知らない奴らにもなぁんにもわからない。そう思ってる。
「作る」をしていない人間が文句を言うな、そんな気配がひしひしと。
「本社は生産状況関係なしに仕事をこちらに頼むことをすると思います。もちろん受注から出荷までの流れも本社のフローチャート通りになぞっていくよう指導もある」
「……」
「認識していただかなければいけないんです。もう同じ会社だって」
そこで工場長が真一文字だった口元をへの字に折り曲げ、思いきり「不服だ」と、その顔に書き連ねた。
「その時は、先ほどの理由は通じなくなる」
仕事があるからルート確保も作業エリアの区画分けもできない。また数日したら仕事がくるから、人が足りてないから、そもそも人の能力が本社「様」とじゃ全く違うから。そんな理由では社長は納得しない。
「動きが鈍いようなら、社長はそのうち本社の工場長をこちらに呼んで、数週間、強制的に、それこそ有無を言わさずやり方を全て本社に沿わせることになりますよ?」
それは嫌だろう?
確かにだらけているとは思った。雰囲気は悪いとも思った。整理整頓はできていない好感度ゼロの職場だと思った。
けれど、椅子の出来栄えは確かなものだった。
なぜなら、品質試験の中で不適合品はなかったから。
本社ではそれなりにできてくるんだ。特に耐久試験なんかではよく。
それがこの二週間、こっちでは見かけてない。
それは確かな技術だと思う。
「だから、その工場長が派遣されてくる前に、こちらだけで、やり方の改善、作業効率の最大向上、これをやって、本社からの横槍を防ぐんです」
「……」
「そのための協力はしますから」
「……まぁ、とりあえず。今日から新しい仕事が入ったんで。でも、今日スタッフが休み多いんで、ちょっと現場行かないとなんでね」
「……」
「打ち合わせの時間も本当は作業に回さんといけないほどなんでね」
そう言って工場長は席を立った。
やるべき改善をやっていないいくつかの理由の中の一つ。
人員不足。
それに面倒臭いと顔をしかめたまま工場長が席を立った。
その背中を視線だけで追いかけると。
「!」
ちょうど枝島が今から工場の方へおりて検査をするんだろう。バチっと目が合った。
目が合って、思わず逸らして。
「……はぁ」
一人になった小さなミーティングルームが今度は俺の零した溜め息でパンパンになった。
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