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第56話 恋をしている。

 なぁ、歩くのはやくないか?  もう少しゆっくりでお願いできたりは?  お前は足長いから普通なのかもしれないけどさ。一歩一歩の長さが違うし、それに俺、けっこう飲んでるんだけど。  あと、手。  繋いだままなんだけど。  この辺、もうお前のマンションの近くだろ?  ほら、コンビニあったし。そこの角を右に曲がって少し行けばマンションが見える。  ほらな。  見えた。 「っぷ」 「治史さん?」  もう人もまばらな平日夜の住宅地。  俺の小さな笑い声がやけに大きく聞こえた。 「いや、本当にほとんどビジネスホテル使ってないなと思って」 「……」 「手、繋いだままで大丈夫か? ご近所の目とか」 「関係ないんで」  現代っ子だなぁ。  そして逆に力を込めて握ってくれる手に俺からもしっかり掴まる。  離さないって掴んできたのはそっちのクセに、俺が握り返すと少し目を丸くして、少し口元が緩む。それが。 「あとちょっとで枝島の部屋だ」  とても愛おしいと思った。  そして角を右に曲がって、ほら、見えてきた。自転車、そういえば歩きで迎えに来たのか。走ったんだろうな。来た時息が切れてたから。  自転車で来なかったのは俺を連れ帰る気満々だったってこと、なんだろうな。  慌てさせた、かな。  まぁ、いいか。一日目が合わないことでこっちはけっこう。 「治史さん、上がってください」 「うん。ありがとう。邪魔す、……ン」  悲しかったんだからな。  だからこれでおあいこ。 「まだ、玄関、ンっ」 「むしろ、玄関まで我慢した」  それに今、こんな近くでしっかり目、見つめられてるから、いっか。 「ン、ん……ン、はぁっ」  深くて、熱くて、とろけるキスはアルコール以上に頭がふわふわとする。 「シャワー貸して」  ふわふわしていて、楽しくて、嬉しくて、胸が躍って仕方ない。  好きだと、あの時伝えていたなら、俺は恋愛することをやめなかったのかな。  あいつ、達也とその後別れるとしても、俺は恋愛をやめることはしなくて、次の恋に行って終わって、また別の恋をして。あぁ、でもそしたら俺は今の会社に就職してないかもしれないのか。じゃあ、こっちに長期出張しないよな。  出会わないのか。  枝島とは。 「……ふぅ」  それは、や、かなぁ。  シャワーを浴び終わると、曇って前が見えなくなった鏡を手で拭った。  目の前にいるのはいつもの退屈なサラリーマンの俺。  ちょっと前まで自分がまさか恋をするなんて思いもしなかったんだ。もう置いて、しまったものだった恋愛をここでするなんてさ。  可愛いわけじゃない。  美人でもない。  ただのサラリーマンで、ただの仕事人間で、面白いことを言えるわけじゃない。全てが平坦で。全てが淡々としてる。自分のことは好きでも嫌いでもないし、仕事も好きでも嫌いでもない。  でも――。 「……」  恋をしている今の自分は好きだなと思える。 「入ってくるかと思ったのに……」  シャワー一緒にとか言って入ってくるかなぁって思ったのに。枝島、来なかったな。ちょっとだけ来て欲しかったり……した、かな。  なんて。  早く、枝島と、したいとか……思ったり、なんかして。  小さく溜め息をこぼしてシャワールームを出ると、用意してもらったバスタオルで身体を拭う。と、その時、玄関がパタンと開いた音がした。それから鍵をどこかに置いた、軽い金属音と、小さな物音が少し。 「枝島?」  まだ拭い途中の俺はバスルームの扉を少し開けて、顔を出した。ちょうど枝島が買ってきたんだろう。物をエコバックから出しているところだった。 「っす」 「……おかえり、出かけてた?」 「コンビニに。治史さんの下着とか」 「あ……悪い。さっき買えばよかったな」  きっとここに帰る途中にあったあのコンビニに行ってきてくれたんだろう。その時に気がついて行っておけばよかった。 「いや、全然」  でもあの時は枝島と、その、することで頭が。 「早く治史さんをうちに連れて帰りたかったんでいいっす」  頭がいっぱいだったから。 「でも、出るの早い。俺も一緒に入りたかったっす」 「……あ」  指先がじんわりと火照る。 「待っててもらっていいっすか。シャワー浴びるんで。さっきめちゃくちゃ走ったから汗かいた」  やっぱり走ったんだ。 「い……よ」  その指先で、シャワールームにやってきた枝島のTシャツをそっと掴んで、それから、太い首に手を置いた。まだ髪は濡れているけれど、身体は拭ったからと、裸のまま寄り添って、柔らかくキスをする。汗をかいたと言っていたから、その首にキスをして。 「治史さ、」  顎のラインにもキスをした。それから唇に、唇で触れて、ちょっとだけねだるように、その寡黙な唇に僅かに歯を立ててから、ペロリと舐めた。 「も、したい」 「っ」  煌々と明るい部屋の中、服を着たままの枝島とは正反対に全裸のままでいるっていうのは、かなり恥ずかしいから、身体をぴったりと枝島にくっつけて見えないようにした。  ホント、恥ずかしいんだ。 「枝島……」  酒、飲んだのに、な。  けっこうヤケになってグイグイ飲んだんだけどな。 「したい」  なのに、もうこうして触れ合ってるだけで反応してるなんてさ。  恥ずかしくてたまらないから、抱きついて、キスをした。  恋をしている甘くてとろけたキスを、した。

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