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第63話 怪我の功名

「えぇ……ちょっと来週からは無理かもしれないです。いや、こちらは実務検査員が実質ひとりなんです。そのひとりが今回怪我を……えぇ……とりあえずまた連絡します。えぇ……失礼します」  電話を切って、溜め息をひとつ足元に落としてから病院へと入っていく。  突然、検査中だった椅子の脚が折れた。  耐久試験の最中だった。  その木の割れたものが元彰の掌をかすめて怪我をした。 「……」  大怪我だ。  五針も縫うなんて。  本人はあのいつもの調子で全然平気なんて言っているけど、でも――。 「っす」 「元彰!」  怪我をしたのは右手。利き手だ。  割れて先端が鋭くなったものが突き刺さったらしく、傷は深かった。  その傷どころか右手はもう指先がほんのちょっと見えている程度であとは包帯でがっちり巻かれてしまっている。 「もうこのまま帰っていいらしいっす」 「あぁ、課長は?」 「今、会計してます」 「……そうか」 「あの……」 「?」  元彰の表情が曇った。  もしかして痛いのだろうか。いや、痛いだろうけど局部麻酔をしているから今はそんなに痛みはないはずだろ? まだ治療してもらって間もないのに、今で、そんなに痛いくらいなら診てもらいなおしたほうがいいんじゃないか? って、病院内に連れ戻そうとした。 「元彰、もう一回、」 「あの、やめになったりしないっすよね」 「……え?」 「俺のとこ、来るの」 「……」  それで、その難しい顔を? 「料理とか無理っすけど全然この手のこと気にしないでいいんで。うちに」 「はぁ……もぉ」 「! マジでっ、大丈夫なんでっ」  何かと思っただろ。  とても心配したのに。なのに、まさか大事をとって俺がビジネスホテルに戻るかと心配して表情が曇ったなんて。拍子抜けしちゃったじゃないか。 「大丈夫だよ。むしろ、利き手を怪我したんだ。家事手伝いがいた方がいいだろ?」 「!」  そこでそんな嬉しそうな顔するなよ。本当に怪我の心配をしているのに、これじゃ、楽しくなっちゃうだろ。そう苦笑いをこぼしたところで会計を済ませた課長が「いやいや……」と呟きながら戻ってきた。  診察の後、病院から工場の方へ戻って来た頃はもう定時を少し過ぎた頃になっていた。仕事の方はあるけれど、でも、俺はしばらくこちらに再度残ることになるから、そう仕事量と負荷率に関しては逼迫はしないはずということで、このまま上がることにした。  そして自転車通勤をしていた元彰はしばらく自転車には乗れないということで、俺が送り迎えをすることになった。 「あ、適当にそのへんに置いてください」 「あぁ」  元彰の住んでいるこことは正反対の方に住んでいる課長はすみませんと頭を何度も下げていたけど、むしろ、俺にとっては全然構わないことで。 「なんか飲みますか?」 「……あぁ」 「酒、今日から治史さん来るってなったから、酒を買っておいたんすよ」 「…………っぷ」  あははって笑うと、不思議そうに元彰が首を傾げた。 「だって、結構な大怪我したのに嬉しそうだからさ」 「そりゃ、そうでしょ」  十五からずっと見つめていた人とこうして一緒にいられるんだから、って顔をしている。 「何飲みます? チューハイもビールもあるっす」 「そんなに色々買ったのか? って、俺がやるから。お前、怪我人」 「っす」 「……って、食材」 「あ、買っておいたんすよ。魚好きって言ってたんで。俺、魚料理はあんましたことないけど、ソテーとかなら簡単だって聞いたんで。けど、この手なんで冷凍しときます。コンビニでなんか」 「いやいや」 「? 治史さん?」 「……」 「あの」  とりあえず、言い訳をするとだな。  料理はほぼしない派なんだ。前に話したけど、元彰みたいに自炊はしてなかったから。仕事で帰りが遅いことが多かったからさ。帰ってから肉焼いたり、魚焼いたり、なんてやってられなくて。  だからなだけで。  料理があまり得意じゃないのはそのせいな訳で。 「は? なんか、すげぇ、皮がえらいことになってるぞ」 「え? なんで? バターとか入れたんすよね? 油も」 「あぁ、あ! わ! やばい! なんか」 「ちょ、なんでこうなるんすか」 「知るかよ」  フライパンからは香ばしいを通り越した、怪しげな匂いがしてきて。俺は大慌てで。元彰も、大慌てなんだけど手が包帯でどうにもならず、もどかしそうに右往左往。 「わああ、皮が全部剥がれた!」  そして、キッチンは大賑わいで。 「まぁ……食いやすいって言えば、食いやすいんで」 「……」 「あ、味はまぁ、美味いっすよ」 「……」 「ほら、骨も取りやすいし」 「…………って、お前、今、内心、不器用って笑っただろ」 「いや、だって、そりゃ、あの」 「ほら! お前笑ってる!」 「だって、そりゃそーでしょ。あはは」 「そんな声に出すほど笑うことないだろうが! 人の失敗を」 「失敗じゃないっすよ。美味いっす、ぷはははは」 「お前、上司を笑ったな」 「あはははは」  でも、俺もけっこう嬉しいんだ。  もう九年も前に置いてしまっておいた恋を引っ張り出したいと思えた相手と、こうして一緒にいられるって。  ちょっとどころじゃなく嬉しいから。

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