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第64話 ラッキーだ。

 料理なんてしてこなかった自分も、土日の週末に人の多そうな場所で一日を過ごす自分も、それから誰かを好きになる自分も、全部新しくて、ふとした瞬間に、口元がちょっと緩むんだ。  くすぐったいような。  真新しさにいちいち驚いて落ち着かない気持ち。 「すんません。洗い物」 「いいよ。左手しか使えないのに無理だろ。それより麻酔は? そろそろっていうかもう流石に切れてるだろ」 「痛いっすけど」 「えぇ? 痛いのかよ」 「けっこうずっと痛いっすよ」 「おま……」  全然痛そうな顔してないし。しれっとした顔してるからまだ麻酔効いてるのかって思ってたじゃないか。局部麻酔でそんなに長い間大丈夫なものだっけ? って、と考えてたところだった。俺も局部麻酔したことあるから少し長いなって。と言っても親知らずを抜いた時の歯医者でのものだから、その差があるのかと思ってた。親知らずを抜く時の局部麻酔は二時間もあれば効力なくなってたから。  平穏無事な、何も劇的なことの起こらない、刺激の全くない日々をずっと過ごしてきたので怪我もほとんど、大人になってからはしたことなく。だから、元彰の手の怪我を見た時はさぁーっと血の気が引いたくらい。 「大丈夫っす。痛いのは我慢できるんで。俺、ガキの頃とか予防接種関係泣いたことないっす」 「あはは。っぽいな。なんか無表情で受けてそう」  それで終わったらさ。「っす」なんて言って、ぺこりと頭を下げてそう。  そんなことがパッと想像できた。  元彰は食器を洗い終わった俺の背後にピッタリと立ち。いくらか俺よりも高いところにある鼻を俺の頭にくっつけて、そこで深呼吸をした。 「こら、頭の臭い嗅ぐな」 「髪っすよ」 「一緒だろ」 「それからキッチンで洗い物する治史さんエロい」 「そんなわけあるか」 「あるっす」  ないよ。家事能力のない辿々しい手つきで食器を洗う、まぁまぁダサい三十路だ。 「さて、と」 「?」 「風呂、手伝うから」 「!」  ホント、寡黙なのにおしゃべりな表情だ。 「っす!」  利き手が使えない元彰の利き手になるべく風呂の方へと歩く俺の後をこれから散歩に連れて行ってもらえるシェパードがやたらと嬉しそうについてくるみたい。 「先入っていいぞ」 「……は? なんで服着てるんすか」 「なんでって、手伝うからだろ」 「……」  ホント。おしゃべり。 「……っす」  とても不服だと顔いっぱいにメッセージを書いている元彰がおかしくて。 「っぷ」  つい笑った。  小さめ、俺が泊まっていた、でもその予定の半分も滞在することのなかったホテルのバスルームよりは大きいから、一人暮らしであればなんの問題もないだろう、けれど二人で入るなら少し窮屈なバスルーム。今は服を着ているからなおさら窮屈に感じるそこに立ち込める湯気と一緒に堪えきれなかった低い笑い声が混ざった。 「なんだよ」  そう少し不貞腐れたような声で呟いたのは俺。  笑ったのは髪を洗ってもらっている元彰。 「だって、治史さんの作った飯食わせてもらったなぁって」 「悪かったな。下手くそで」 「いや、美味かったっす。ボロボロだったけど」 「料理なんてしたことないんだ」 「あざす」 「あざすじゃないだろ」 「なんですか」 「もっと自炊くらいできないとな」 「いいじゃないっすか、別に」  上を向いて目を瞑ったまま、そう礼をいう口元が笑ってる。  よくないだろ。  料理もできないなんてって呆れられるかもしれない。  今まではそんなの心配もしていなかった。別に誰かと一緒にいるプライベート、というのがなかったから適当でよかったんだ。一人で食べるのなんて、別にさ。けど、こんな時にあれじゃ……って思うし。自炊できて困ることなんてないだろ。元彰との、この関係とか抜きにしてみても。 「風呂手伝ってくれて、あざす。治史さんも仕事後でゆっくり入りたいのに」 「別に疲れてない。気にするな。利き手なんだ。不便だろ」 「……そっすね」 「目閉じたままな」 「っす」  前髪を全部後ろに流すとドキドキした。  それを気が付かれてしまわないように、手を動かすことにだけ集中して。 「……気持ちいいっす」 「そうか? 人の髪なんて洗ったことないからわからないけど」 「……また治史さんの初めてもらえた」 「こんなのも嬉しいのか?」 「すげぇ嬉しいっす」 「!」  そこで元彰が目を開けた。黒く艶やかな瞳が真っ直ぐ、真上にいた俺を射抜くように見つめて。 「っ」 「っんぶっ」 「ごめっ!」 「ゲホっ」 「目、開けるからっ」  大急ぎですぐそばに置いていたタオルを顔目掛けて放り投げて、そのままそのタオルでぎゅっと、とにかくぎゅっと顔に押し付ける。じゃないと、三十にもなってただ風呂の手伝いをしているだけなのに意識しまくって、顔が熱くなってるところを見られてしまうから。 「も、平気っす」  タオルで思いっきり顔、ぎゅってした。もう平気だと俺の手首を掴んでそのタオルを退かすと、ほぅ……って、小さく深呼吸をした。  そして、きっとこっちを見上げるだろ?  そしたら、目が合うだろうから。だから。 「悪い、目痛くないか? っていうか包帯濡れて」  包帯に視線をやろうと思ったんだ。本当にちゃんと心配してたけど、でも包帯のことが気になっているんですってことにして目をそらそうと思ったんだ。 「怪我、したの貴方じゃなくてよかったって、マジでほっとした」  水も滴るってやつ、は……きっとこういうのをいうんだろうな。 「あの時、あとで手伝ってくれるって言ってたけど、その時じゃなくてよかったって。マジで」  目が、濡れていて。  見つめ合うと、喉のところが熱くなる。 「それから」  熱くなって、息を呑んで。 「怪我してラッキーって……思った」 「ラッキーなわけあるか」 「ラッキーっすよ。貴方に世話してもらえるなんて」  キスがしたくなるから。 「最高なんで」  だから、した。  いつもよりずっとよく喋る。 「あの、すんません」 「?」 「身体も洗ってもらいたいっす」 「なんでそんな嬉しそうなんだよ」 「そりゃ、だって……」  怪我をしたくせにずっと綻んだままの唇にキスをした。

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