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第67話 そっと

「うーん……」  さっきまで甘ったるくて、しっとりとした空気で満ちていたベッドの上い穏やかで楽しげな空気がふわりと広がっている。  子どもが大きな真っ白なシーツを部屋いっぱいに広げて、空気をそのシーツが模って、丸い気球のようになったことに喜ぶような。  身体をもこもこの泡で洗っていたら、思いがけず出来上がったシャボン玉にはしゃぐような。  小さな、でも楽しげで。  小さいけれど、その些細やことに笑顔になれるくらいに何かが満ち足りているような。そんな空気。 「っぷ……」 「笑うな」 「だって」  元彰がベッドの上で、膝を折り立たせて座り、その膝に腕を乗せて、ぶらりと俺の方に差し出しながら、堪えきれない笑いをこぼした。  器用な方じゃないんだよ。  元々。  気をつけていたつもりだったのに、気がついたら包帯はずれて緩んでしまっていた。医者に見られたら「だから今日は激しい運動は控えろと言っただろう!」と叱られてしまいそうなくらい。  五針も縫ったんだぞって言っていたくせに、夢中になってた。 「けど、包帯の巻き方が手慣れてる人間の方が少ないっすよ……っぷは」 「笑うなよ」  フォローしてくれたかと思った次の瞬間には笑ってるし。  笑うなって言ってるのに、また笑ってる。  それでもそっと手を取って悪戦苦闘しつつ包帯を巻きつけていく。まだ痛くてたまらないだろう手をそっとそっと、真綿を掌に乗せるように丁寧に優しく。  病院の帰りに一応ストックとして買っておいた包帯は素材の違いから……な、だけじゃないけれど、巻き直された手の包帯はまるで仮装大会のミイラみたいにくったりと適当にその手に巻きついていた。  医者じゃないんだからあんなに上手に巻けるわけないだろ?  それにしたって、もうちょっと、と元彰が言いかけて、また上司に対してはとても失礼なくらい笑っている。 「図工とか美術とか得意じゃなかったんだよ」 「そうなんすね。治史さん、全部成績良さそうっす」 「そんなわけあるか。不得意なものばっかだ」  絵は……まぁ、デザインとかも学んでたし、まぁまぁ。けど、工作は全然。裁縫関係に至ってはもう全くできない。 「そうっすか?」 「料理もできないし」 「あー、まぁ」  あ、断言か、って顔で文句をつけると、だって本当に不得意じゃないっすかって笑ってる。 「成績で言ったら図工とか美術も大体中の下くらい」 「へぇ。英語は」 「まぁ、まだマシか」 「国語は?」 「苦手。高校の時、これじゃやばいと、小論文の短期講習受けたくらい」 「マジっすか」  元彰が目を丸くした。 「だから、今でもクレーム報告書とか、不具合解析報告書とかの作成も」 「見えないっすよ」 「見せられないだろ。課長なんだから」 「あはは、確かに」  そんな他愛もない会話に、拙い包帯の巻き方。  本当に不器用なんだ。  下手くそ。  だから達也とはああやって終わったし、その後も大して上手にちゃんとした大人にはなれていない。 「あれ? これねじれた」 「そうっすね」 「ちょっと待ってろ。ここをこうしたら、きっと緩まずに……」  手って案外複雑な形をしてるよな。解けないように、痛くならないように、そう考えながら、あと、病院でしてもらった時、手の甲のサイドで包帯がクロスするようになっていたことを思い出しながら。こうだっけ? こうじゃない? あれ? こうかな? って、不器用ながらに考えて。 「こうじゃないっすか?」 「ぁ……」 「多分、ここを、こうして……そっち持っててもらっていいっすか?」 「あ、あぁ」 「そんで、ここで」 「……ぁ、お……」 「こう」  なんだ。全然、自分でできるのか。じゃあ、俺がしてたのって余計なお世話じゃないか。ちっとも役に立ってない。 「ありがとうございます」 「いや、俺は手伝いにもならないっていうか、元彰が自分でやった方が早くできて、すぐ寝られたな。ごめん」 「は? いや、っすけど」 「なんでだよ」 「だって」  元彰はその綺麗に包帯を巻き終えた手の指先で俺の手を取った。そっと、そーっと、優しく。 「包帯巻いてくれる手、すげぇ優しくて、気持ち良かったっす」  だって、痛いだろ?  だからそっと。  そっと。 「そんなわけ。不器用だなって」 「不器用なとこ」 「……」 「すげぇいいっすけど? 俺の手に包帯を一生懸命巻いてくれる貴方が見られた」  そんなの「見られた」なんて喜ぶようなことじゃない。ちっとも。ダサいだろ。 「すんません。早く寝たいっすよね。少しでも見てたくて」 「いや、俺は」 「包帯、あざっす」 「礼なんて」  ぎゅっとしてしまったら痛むだろうからそっと手を取って、包帯もそっと巻き付けた。 「包帯巻くのあんまで、図工も美術も、そうでもなくて、国語も苦手で、報告書、実は書くの好きじゃない。そっちの治史さんも見れて。こんなふうに優しくしてもらえて」 「……」 「最高っすよ」  そして触れた唇は、まるでふわりと舞って空気をはらんで膨らんだ真っ白なシーツみたいに清々しくて、優しくて。 「マジっす」  柔らかかった。 「ありがとうございます」

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