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第69話 延長決定

「ふぅ……」  休憩所の自販機で缶コーヒーを一つ。ボタンを推したとほぼ同時にガタンと大きな音と一緒に落っこちてきたのを取ろうと腰を曲げると、思わずそんな溜め息が溢れた。  久しぶりに一日検査したから疲れたな。  もう役職に就いてからは一日検査をしていることなんてほとんどなくなった。デスクワークの方が時間比で言えば多くて、他部署や他拠点とのミーティングだけで終わる日もあるくらい。それから書類の確認、検査結果の検証、人員の管理、そっちの方が仕事としては多い。  昔は一日検査してた。一日の終わりには足がフラフラになるくらいに身体的に疲れて、帰るのが億劫になったっけ。もちろん夕飯なんて作る体力も残ってなくて。コンビニ直行だった。  懐かしいな。  もう今はそういうことなくなったな……。 「お疲れ様です。久しぶりの検査業務は疲れましたでしょう?」 「課長、お疲れ様です」  缶コーヒーを開けたところで、階段を降りてきた課長と遭遇した。ぺこりと頭を下げ、ポケットから小さながま口を取り出した。小銭入れらしく、そこから太めの指で硬貨を摘み出す。 「枝島君は」 「今、連続使用検査の最中なんで」 「あぁ、なるほどなるほど」  基本使用回数というのがあって、そこまでの回数使用してみて破損、劣化などがないことを確認する試験がある。基本的そばで確認するのがベスト。ただ何万回と繰り返している様子を勤務時間八時間、ずっと見守っている訳にもいかないから人の目視と同時にカメラでもその様子を伺うんだけど。 「すみません。うち、カメラとかないもので」 「いえ、カメラなしっていう企業も結構ありますよ」 「そうなんですか?」 「えぇ、でも、その辺は本社の部長と話してみます。こっちの必要機材も今回ちゃんと調査案件として持ち帰る予定ですから」 「色々すいません。あぁ、そうだ。今回の枝島君の怪我で滞在の延期を」 「あぁ、部長から返事来てましたか?」  課長が申し訳なさそうにコクリと頷いた。  怪我は全治二週間と医師から診断を受けている。どこまで延長できるかは本社の品質保証課の業務量にもよるだろうけれど、せめて一週間はこっちで検査をしないと、こっちの業務がまわらなくなるから。  だから、判断に関しては託すような形で、こっちの人員不足、機器の劣化、不足は報告をしておいた。 「えぇ、一週間の延期をと」 「そうですか」  一週間、か。  向こうもかなり忙しそうだったからな。実質の検査はしなくても、それに伴う管理的なデスクワークは遠距離でも可能だけど、その場にいないことで難しくなる業務もあるから。確かにそのくらいの延長が妥当だろうな。 「向こうも忙しいのに。本当に申し訳ない」 「いえ、大丈夫ですよ。ちょっと私もメール確認してきます」 「あ、はい。はい。よろしくお願いします」  ぺこりと頭を下げて、その場を立ち去ると、階段を少し急足で登った。上りながら。 「あ、もしもし、部長、お疲れ様です」  本社の部長に連絡を入れて、小さい方のミーティングルームが空なのを確認してから、そこで電話の続きを始めた。 「延長の件、ありがとうございます」 『いや、その後、久喜君の様子はどう?』 「えぇ、手が使えないので、代わりに私が検査を」 『そっか。お疲れ様』 「いえ」 『申し訳ないね。急な出張だったのに延長までさせて』 「いえ」 『……よかった』 「? 部長?」 『最初、しぶがってただろう? 今回延長するより他がなさそうだったから、早く戻りたいと思ってね』 「ぁ……いえ」 『そっちはかなり悲惨な状況のようだから苦労かけてるね』 「いえ……大丈夫です」 『本当に?』 「えぇ、全然。色々大変ですが。今度こっちで不足して入る備品等をリストにしたので送ります。そちらで購入の検討お願いできますか?」 『あぁ、もちろんだ』  そこからしばらく、本社の状況を聞いた。  やっぱりできる部長だ。それこそミーティングと書類業務がほぼなのに、現場の様子をしっかり把握して、二つの部署のバランスを常に取っている 「それじゃあ、また仕事に戻るので」  ちょうどその時、下で休憩を取っていた課長が戻ってきたのが見えた。 「今、連続使用のテストなんです」  それを聞いて、部長は少し早口で残りの業務連絡をしてくれて、そのまま電話は切れた。 「ふぅ」  申し訳なくなんか、ないんだ。  確かに最初、渋っていたっけ。九月一日、淡々と日々を過ごして、淡々と仕事をこなして。何もない平和が一番だと、そこにいた。 「あ、お疲れっす」 「……どう?」 「いや、なんも」  しぶがっていた、のにな。 「異常がなさそうならこのまま試験終了できそうだな」 「っす」 「就労時間内に終わる、かな」 「っす」  少しの罪悪感。 「手はどうだ?」 「全然、余裕っす」 「なら、よかった」  怪我をした。大変だ。この完全に不足している人員数では困ってしまう。もう一人必要じゃないか? それなら俺が。出張延長で。  すんなりとそう判断できたのは。 「今日、晩飯何がいいっすか」 「え?」 「一緒に作るんで」  一緒にいたかったから。  まだ、もっと。 「肉にしますか?」 「……あぁ」  元彰ともっと一緒にいたかった、からなんだ。

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