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第76話 恋しくなる風

 すごいな。  恋は。  なんてことのない、ただの土曜も一緒にいられるからとお祝いしたくなる。  これじゃあ、ほぼ毎週末お祝いになりそうなんだけど。 「これで足りるかぁ?」 「…………多分」 「えぇ……お前の多分はなんかアテにならないんだけど」 「…………いや…………多分」  結局、多分なのか? って笑ったら、三円で買ったビニール袋がガサゴソと騒いだ。  今夜は夕飯を手巻き寿司にした。  ――手巻き寿司っすか?  ――そ。一人じゃ絶対にってわけじゃないけどやらないだろ? でも二人だからいいかなって。  ――いっすね。  子どもみたいに笑うから、なんかくすぐったくて。じゃあって早速スーパーに買い物に来てる間中、ずっと気持ちが躍ってる。もしもこの気持ちに鈴がついてたら、ずっと賑やかで軽やかな音がしてるだろうってくらい。  エコバック持ってきてたけど、足りなかった。あれもこれもって買ったら、どう考えても入り切りそうになくて。 「お前のあのカニ食い放題の時を思うとなぁ」 「あれは……まぁ」 「えぇ? まぁって、本当にあの時レストランにあったカニ全部食い切る勢いだったぞ」 「納豆巻き、死ぬほど食うっす」 「死ぬほどって……」  あははって笑ったら、秋めいてきた風が夕暮れで少しひんやりと俺たちの足元を通り過ぎていった。  スーパーマーケットは少し遠いんだ。でも工場と元彰のマンションのちょうど通り道にあるから仕事帰りに寄れて不便には感じないらしい。ただ休日になるとちょっと面倒で。  でも休日は買い物しないから別にって、あの寡黙な口調発動で、ポツリと呟いてた。  そうだった。  なんて、その時、思い出したんだ。  元彰って寡黙なタイプだと思ってたってことを。 「納豆は常備してるんで」 「あはは、確かに、納豆冷蔵庫に入ってた」 「っす」  たくさん、元彰の方から話してくれるから、そんな感じしなかったけど。 「じゃあ、まぁ、足りるか……俺は元彰ほど食べないだろうし」 「…………治史さん」 「んー?」 「スーパーマーケット」 「?」  こっちに戻ってきた時は、おいおいまだ夏だと思ってる? って呟きたくなるくらい、空も、風もまだ暑さがすごかったのに。  三週間も経つと季節はまるで変わるんだな。  あんまりそんなことも実感しなかった気がする。今までは。  季節が変わること自動的に、ふーん、そうか、ってくらいにしか感じ取っていなかった。  だから少し驚く。  こんなにも変わるものなのかと、さ。季節一つさえ、愛しくなれるのか、と。 「休日に買い物しないからあんま気にならなかったっすけど」  足を止めて、俺を呼んだ元彰の側を走り抜けて、俺の首筋を撫でていった風はもうあの時みたいな湿気を含んだ夏の風じゃなくなってた。 「けっこう遠いっすね」 「……」 「たくさん歩くことになってすいません」 「……いいよ、別に」  秋のさっぱりとした湿気をほとんど含んでいない、でも、少しひんやりとしていて、温もりが恋しくなる風に変わっていた。 「楽しいから」  ひんやりとしていて、手を繋ぎたくなる風に変わっていた。 「っす」  恋人のことが恋しくなる風に、変わった。  手繋いで帰るの、すごくドキドキした。なんて、三十の男のくせに思った。あったかくて、ずっと手を繋いでいたいって、そう思ったのと同時、元彰が俺の手を少し強くキュッと握るから、同じことを思ったのかな、なんて。  その手の温もりに何か気持ちがほろりと緩んで、とろけた。 「お前、けっこう不器用……」 「いや、そんなことは」 「具、入れすぎ」 「……」 「食いしん坊」 「腹減ったんす。歩いたから」 「減らず口」 「……治史さんこそ、もっと食った方がいいっすよ。貴方、マジで細いんで」 「いや、三十男にしては食べる方だろ。お前が食い過ぎなだけ。それで、その体型ってずるいって言われるぞ」  元彰はどうにかこうにかしてようやく巻けた手巻き寿司を大きな口でパクりと食べた。  豪快に食べるんだ。ほら、普段はさ、シャープな顎のライン、骨っぽくて、あんまりじっと見つめてると男の色気にくらりとさせられそうなそんなライン。それがたくさん詰め込んだご飯でぽっこり膨れる。けど、すぐに全部食べ終わってさ。  やっぱり、元彰の食べ方がすごく好きで。 「すでに、ずるいって言われてると思うっすよ」 「?」  たまらないなぁって。 「はちさんのファンに」 「そんなわけ。って、わ、あわわ」 「治史さんの方が不器用っす」 「違っ、これは、今、お前が変なこと言うから」  俺は崩れかけた巻き寿司を大慌てで口に運んで。おっことしてしまわないように、そのまま大急ぎで飲み込んだ。 「っぷ」 「笑うな」  二人で食べる手巻き寿司は用意も簡単で、美味くていいんだけど。  ちょっと忙しい。 「めちゃくちゃ可愛いんすけど」 「!」 「米、つけて」  その米を長い指が摘んでパクリと食べて。  その指先をついじっと見つめていた俺は、なんだか心臓をギュッと鷲掴みにされたような気がして。 「あ、りがと」  頬張りすぎた。案外、手巻き寿司の難しいなって、元彰くらいに小さな声で呟いた。

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