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第78話 変化
「あの、久喜課長、これはどうしたらいいっすか?」
「んー?」
隣にいる元彰から尋ねられて手元を覗き込むと溜まっていたんだろう未処理の書類があった。
「あ、溜め込まないように」
「っす」
「そんで、それはスキャンしてPDF化してから本社サーバーの」
「っす」
「そっちじゃないな。こっち、この書類フォルダーの、そうそうそこ」
やっぱり少し苦手らしいデスクワークに難しい顔をしたのを笑うと、もっと難しそうに、というか、ムキになって口を真一文字にした。
「あ、あと、これなんだけどさ」
「っす」
真一文字の口は気にせず、次の検査の概要を説明すると、もう表情は切り替わり、俺の見せた図面をじっと、真剣な眼差しで見つめていた。
元彰の手の怪我はもうだいぶ良くなっていた。
包帯を巻いてはいるけれど、本人はもう全く痛くないようで、今朝、月曜日の朝は包帯をせずに仕事に行こうとしていたくらい。傷はかなり深かったため、医者には再度診察の後、包帯を取ると言われてる。だから、朝食の片付けをしていた俺が大慌てで止めたんだ。
もう平気っすよ。
なんて言ってたけど。
とりあえず、そんな状態だから今日も主に検査をしているのは俺で、元彰はそれを見学しながらのお勉強。ただ怪我人は自分なくせに、俺が重いものを持とうとすると、例えば、検査用の機器とか。そういう時は慌てて手伝おうとするから、俺も慌てて否定して。検査機器も見た目よりもずっと重量のあるものもある。特にこっちの工場に置いてあるものはほとんど古いものだったり手作りのもので「軽量化」されているものが少ないから。
「ふぅ」
やっぱり検査は疲れるなぁ。
月曜日は特に忙しい。というか、この月曜日に仕事でつまづくとそこで発生した遅れが、翌日の遅れにつながって、そのまた……と、金曜日には手に負えない遅れにつながって、休日出勤なんてことになるんだ。土曜日に終わればいい。最悪、本当に最悪の場合は日曜もなんてこともあり得る。何せこっちは検査員がたったの一人だ。協力し合ってスピードをカバーすることはできないし、仕事の瞬発力もさほどない。
とにかく人員が少ない。
「……」
足りなくても、俺はこっちで仕事してやれないから。土曜日までしかやってやれない。日曜日の午後にはこっちを出発しないと。
日曜日の午後には、さ。
休憩時間、一階の自販機で缶コーヒーを開けて、ひとつ、溜め息を溢した。
枝島は俺が教えたパソコン処理の仕事をまだ夢中になってやっている最中だ。検査の成績書の作り方。これも今まで斉藤さんに任せっきりだったけれど、急遽休む事になった場合は元彰が自分で処理できないと。本人もその自覚があるんだろう。苦手と顔面に描きながらも頑張っていた。
「お疲れ様です」
「…………ぁ、課長」
珍しい人と珍しい場所で遭遇した。
「すみません」
そして、そう小さな声で呟いた。
「? どうかされましたか?」
「いやぁ……本来ならもう出張は終了していたのに」
「いえ、枝島君が怪我をしてしまったら仕方がないかと」
「それもそう、なんですが」
悪い人ではないんだ。でも、なんというか――。
「本当はもうこちらにはいらっしゃらない」
「……」
「いや、まぁ、なんというか、まだ今日みたいに教えてもらうことがあるっていうのは……」
本来ならもういなかった。なのに、まだ元彰に教えないといけないことがたくさんある。検査の実務をこなすばかりではなく、デスクワークのレクチャーをまだしている。
つまりは、こっちの課長経由で事前に業務の統合を図っていたはず、なのに、まだそれが完遂されていないっていうことだから。
「私の悪いところです」
「……」
「変化に一度、必ず、尻込みする」
いつもにっこり笑って、朗らかで、そこがこの人のいいところだと思った。けれど今はがっかりしたような顔をした。
がっかりしたのは、俺にじゃなく。多分。
「システムが変わるって時に……」
自分にがっかり、している。
「そう、ですね」
変化に尻込み、するよ。
「そういうものだと思いますよ」
「……ぇ?」
「変わるのってパワー、いるじゃないですか」
「……」
淡々といつも通り。
平坦で、撫でらかで、変化のない。
そのままそこでじっとしているのは楽なことではあるけれど。
「変わって苦労することだってあるだろうし。でも変わらなければ、苦労することもないし、戸惑うこともないってわかってるじゃないですか。苦労も戸惑いもない方が楽ですから」
「……」
「でも、楽じゃないけど、楽しいかもしれないですよ」
仕事だけしていた毎日に「恋」が生まれて踊り出した。
くるり、くるりって。
それはたまにとても疲れるけれど、息切れもするけれど、でも鏡に映る自分の表情は明るくなる。
きっと。
「それに、一人じゃないじゃないですか」
「……」
「いいチームだと思いますよ。ここの品質保証。俺は……」
楽しい、と。
「俺は、ここで仕事できてよかったって思ってます」
「……」
恋は楽しいと、そう思える自分に変われたから。
そして、少し変わったら、日々が、時間が、なんだか違ってくる。指先に触れるモノの感触も、目を覚ましてくれそうな朝日の眩しさも、風も、音も、なんだか違って、なんだか、笑顔になれたから。
「そうですね。私も来てもらえて久喜さんと仕事できてよかった」
初めてだった。
課長が、こんなにはっきり話したのはここに来てから初めて、聞いた。
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