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第81話 凛として

 あの日は、一階の工場のレイアウト変更を提案した日だった。それまでにあそこで作業しながら思ったこと、こうしたらもっと効率が上がるのに、そんなアイデアをメモに残して、それをまた他者に分かるようまとめてから、工場長に提案したんだ。  扉の塗装剥がれの再ペイントや、こちらでできそうなことは手伝うからと持ちかけて。  でも、帰ってくるのは渋がるだけの生返事と、嫌そうな顔。  どうしたものかと思いつつ、でも、これからここで元彰たちが仕事しやすいようにと粘り強く交渉していこうと思って……。  ――きゃあああああ!  元彰のためにも頑張ろうと思ったところ、だった。  椅子の脚が折れたんだ。耐久試験の最中に。  違和感は、あった……けれど、まさかそんなことするなんて思いもしないだろ?  だって、怪我した。  こんなの大問題だ。  普通に考えて、即刻、クビでもいいだろ。  故意に椅子が破壊されるように細工をしておくなんて。  そんなの、絶対に。 「治史さん」 「!」  その呼び方にハッとした。 「大丈夫っす」  何がだ。  何が大丈夫なんだ。  あの時、かなりの重症だったろ。  まだ。  包帯だって取れていない。  そっちの、右手で。怪我を、させられた方の手で、箸を持てるようになったのだって昨日のことだぞ? 五針も縫ったんだぞ? 深かった。もう少しズレてたら……って言われた。かなり、の……ことだったんだ。  なのに、何が大丈夫?  どこも大丈夫なところなんてない。  これっぽっちも、ない。 「怖がらないでください」 「っ」 「俺、なんとなくっすけど、知ってたんで」 「! お前、それって」 「このことは誰にも言わないでください」  強く、芯のある声が、引っ張り込まれた階段下の埃臭い倉庫に響いた。何度も足で蹴って開けたせいで塗装が床から十センチほどの高さのところで、まんまるく禿げてしまっている、一階の生産現場に降りていける階段の下。その階段の下のデッドスペースが倉庫になっていた。置いてあるのは掃除道具や、何に使うのかわからないバケツ。他にも奥に何か置いてあるけれどブルーシートが被せられていて何かはわからない。こっちの品質保証課長に工場内を案内してもらった時には倉庫だ、とだけ言われた。  コンクリート打ちっぱなしだからだろう。声がよく響く。  そこに、元彰の低い声が響いた。 「言わないでって、こんなの大問題だろうが。すぐに工場長を含めて、上層部に連絡するに決まってる。本社にだって報告するような大問題だぞ。お前、怪我させられたんだぞっ」 「貴方がこの怪我をもしも負ってたら、そうしてた。つうか、その場で半殺しにしてた」 「!」 「けど、俺だったんでいいっす」  いいわけない。  そんなわけない。  だって、手を。 「貴方と一緒にいられる時間、引き延ばせたし」 「こんな時にそんな馬鹿なこと言ってるな。怒るぞ」 「あの二人が抜けたら製造部、生産性ガタ落ちっす」 「そんなこと言ってる場合かっ。それに人員なら最悪本社から呼び寄せてっ」 「これを報告したところで、ここの現場の腐ったとこはすぐには直らない。あの二人以外だって全然だらけてる。だからあの二人を切っても直らないし、生産性が落ちて、また文句言われて、それにキレて、ってなるだけっす」 「!」 「その度に貴方が呼ばれる。それはいやだ。貴方に苦労なんてかけたくない」  ふわりと笑った。 「すぐには、ここ、立て直すのは難しいと思うんすけど」 「……」 「でも、諦めずに業務改善していくんで。俺が」  笑って、その包帯の巻かれた手で、俺の頬をそっと撫でた。 「貴方が次にこっちに来た時に、なんだこれはってさ、溜め息こぼすことのない工場にする」 「……」 「来てすぐ、頭痛いって顔してた」  今度は苦笑いを浮かべて、自虐混じりに呟いた。 「俺も、そっち側で適当にやってんす。入った時」 「……」 「楽しいとも、つまらないとも思わなかった。ただこれが俺の仕事だったから、これをして、あれをしてって、単純に何にも考えず、言われた通りに、指示のあった場所に指示通りの検査をしていくだけ。仕事なんで」  楽しいとも、つまらないとも思わなかったって。それは、まるで。 「けど、でかい会社に吸収されて、みんながブーブー言ってたけど、けど、俺は、それすらどうでもよくて。他の物事もそうだった。言われたからやる、ってだけ。合併するのも、俺は、あっそって……思ってた。治史さん、っつうか、久喜課長とオンラインのミーティングで話をするまでは」 「……」 「俺、貴方にすげぇ育ててもらったんで」  こっちの工場に来て、本当に悲惨で最悪に低いレベルの状況に頭を抱えたけれど、そこだけ違ってたんだ。空気がさ、凛としていた。  そこには元彰がいた。 「だから、見てて欲しいんすよ」  周囲がダラダラとおしゃべりをしながら仕事をしている中、一人黙々と、古びてくたびれた機械の前に立ち、操作をするその横顔はとても凛々しかった。 「貴方に育ててもらった俺が、ここの工場を少しずつっすけど、ちゃんと立て直すとこ」 「……」 「見ててください」  寡黙な奴だなって……思った。 「そんで、立て直したら、すっげぇ褒めてください」  そんな元彰がたくさん喋っていた。  俺はほとんど黙ったまま、ただ、その好きな男の凛とした声が語る言葉一つ一つに泣きそうになるの堪えるばかりだった。

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