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社員旅行編 8 ただの社員旅行

 社員旅行があるなんてこと忘れてたくらい、だったけど。  だって、そうだろ。  会社集合で、そこから観光バスに乗り込んだらもう翌日会社に戻ってくるまで、組まれた予定に流されるだけなんだから。自分でプランなんて立てなくても運転しなくても、自動的に観光地巡りをして、出された食事を食べて、やらないわけにはいかない宴会に出席するだけ。仕事の一つ、でしかなかった。 「旅行、か……」  それなら少し、残念、かもな。  温泉、行くのなら、元彰と二人でゆっくり、が初めてにしたかった。 「っ、っ、べ、別、にっ」  自分の部屋で寝る直前、もう直ぐに迫っている社員旅行のことを考えて、一人赤面した。  本当に思いもしなかった。  自分が恋人と初めて温泉旅行に行くのなら会社の、ではなくて、プライベートで二人キリがよかったな、なんてこと。 「……はぁ」  思いもしなかったよ。  毎年、義務として仕事と一貫として参加していた社員旅行が今年初めて楽しみになった。  カレンダーであと何日と思ってみたり。  当日の天気が気になって仕方なかった。  毎日チェックしてたりした。  温泉街に足湯のポイントがたくさんあるらしい。その足湯を巡るスタンプラリーをしてると書いてあったのを温泉宿のホームページで見つけて、順番、覚えてしまった。  今回の宿はうどんが手打ちで評判が良いとレビューにあった。露天風呂が西向きだから、夕暮れ時がとても最高ですとオススメされていた。  普通の温泉街。  普通の、いつも通りの社員旅行。  でも今年は、楽しみにしていた。 「忘れ物は……なし」  天気は晴れ。 「さて……行くか」  うどん、食べたいな。  夕暮れはちょうど宴会始まってしまってるかな。露天風呂入れるといいのだけれど。  スタンプラリーとか子どもみたいだろうか。昨日は忙しかったから疲れてるだろうか。  昨日の夜は翌日の社員旅行に全員で参加するために遅くまで仕事をみんなしていたんだ。朝も早いし。だから、うちには来なかった。旅行の準備もあるし。 「少し早いか……」  時計を見ればまだちょっと早い。  ただの社員旅行なのに。  待ちきれない子どもみたいじゃないか。楽しみで仕方がなくて、早く早くって自然と走り出してしまう子どもみたい。  ワクワクしてる。  楽しみなんだ。 「あいつ、はやっ」  ポケットの中のスマホがブブブと振動した。  ――おはようございます。待ち合わせの場所にもういます。何か飲み物とか買っときますか?  そんなメッセージだった。  一緒に行こうって話してたんだ。会社の観光バスが来てそれに全員で乗り込むんだけど、電車通勤の人が少ないから、会社まで車で大体の人が来て、そこから乗り換える。だから、一緒に行こうって。近くのコンビニで待ち合わせることにした。普段、俺は車だけれど、元彰は自転車だから。一年間の長い研修。ワンルームマンションは会社の手配だけれど、レンタカーを契約するほど遠いところじゃない。会社支給の自転車で十分通える。  そのおかげで雨の日がけっこう好きになった。  雨の日は会社まで車で一緒に行くから。  今日は荷物があるから俺の車で一緒に会社まで向かうことになっている。他にも数名、自転車通勤の人間は誰かしらが車で送ってる。  ――大丈夫。もう俺もそこに行くから。  それだけメッセージを送って、車のエンジンをかけた。走り出したところで助手席に置いたスマホがまた短く振動したけれど、運転中だから。  きっと元彰からだろう。  ゆっくりでいいですよ、とかかな。  なんだか少し負けた気分。  俺の方がきっと絶対に楽しみにしていたのに、早く待ち合わせ場所にやってきた元彰の方が楽しみにしていたようで。待ちきれなかったように思えて。  車で数分。一つ、信号で止まるだけでもどかしい。せっかち、ではないと思っていたけれど、信号待ちのたった一分二分でも待たせてると思うと、早く早くってせかしたくなる。青信号と同時に走り出して角を一つ曲がって。 「!」  駐車場に入る時点で見つけた。  黒いTシャツに黒いパンツ。それに珍しくキャップをしていて。わ、って胸が躍る。リュックにしたんだな。片方の肩にだけリュックの紐を引っ掛けていた。 「っす」 「おはよう」  助手席を開けて腰をかがめ、いつも通りの挨拶をする元彰がぺこりと頭を下げてからキャップを取った。少し潰れてしまった前髪を手でバサバサと乱すのが、シャンプーを終えて濡れた毛をブルブルと身体を揺らして乾かす犬みたい。 「大丈夫って言われましたけど、お茶、買いました」 「あぁ」 「飲みます?」 「あ、いや、今は」  そんな他愛のない会話をしながら、駐車場の中で車を方向転換させると、今、入ってきた道へ出ようと。 「カバン、後ろに置いていいすか?」 「あぁ、そこに」 「じゃあ、お茶入れておきます?」 「あ、うん」 「ちょっと、ストップ」  元彰が後部座席へ振り向こうと身体を捻った瞬間。 「…………」 「今日、ずっと一緒にいられるけど、キスはできないんで今のうちに」 「……」  ここ駐車場だぞ。経理課の大塚さん、このコンビニの近くに住んでるんだぞ。車の運転中なのに危ないだろ。方向切り替えて停まっていたけど。でも、朝だぞ。 「あ、あぁ」  そういうの一つも言えず、キス一つに胸を躍らせた。 「社員旅行、楽しみっす」 「あ、あぁ」  きっと俺の顔は赤かったかと思う。 「っす」  俺を見て、元彰がとても優しく笑っていたから。

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