64 / 113
恋人編 1 恋人
やっぱり激辛キムチ鍋……は、この時期ちょっとどうだろう。あ、じゃあ、カレーは? スパイシーな辛口カレー。ほら、夏はやっぱりカレー、みたいなキャッチコピーでよくテレビコマーシャルやってなかったっけ。あ、夏野菜とか入れたらいい? 茄子、トマト、あとは、キュウリ……は、入れないか。
夏野菜カレーとか美味しいのかな。俺、食べたことないや。伊都が少しトマトと茄子苦手だし。
「あ、夏野菜カレー、美味しそう。今の時期にいいですよねぇ」
「!」
藤崎さんがいきなり背後から声をかけてきたものだから、俺はもう少しで手元に置いていた水筒を倒してしまうところだった。
「今晩はカレーですか?」
「あー、うん。そうしようかなぁって」
職場の昼休憩、持参のお弁当は睦月とお揃い。今日はこのお弁当のおかずもちょっと大人向けの味付けにしてあった。柚子胡椒で作ったソースで合えたサラダなんて、伊都にはちょっと大人すぎて、普段は入れられない。夏休みは小学校の学童に通っているから、伊都はその期間ずっとお弁当だ。
「カレーって美味しいけど、子どもがいるから甘口じゃないですかぁ。でも、たまに辛口のが食べたくなりません? あと、キムチ鍋とか坦々麺とかもやっぱり食べられなくて」
「あー、うん」
そう普段は食卓に辛いものなんてほぼ出ない。たまに胡椒を使うくらいで、基本、キムチとかワサビとかカラシの類は使わないのだけれど。
「今日から、伊都は実家に行ってるんだ。泊まりで」
「あら、じゃあ、のんびりですねぇ」
「うん、まぁ」
だから、普段は食べられないメニューのほうがいいかなって。
――もう付き合って丸三年でしょ? 伊都ももう三泊四日くらい、あんたがいなくたって大丈夫よ。ほら、来年じゃなかった、学校でさ、修学旅行の練習とかで宿泊訓練とかするの。それの練習よ。
きっと姉なりに気を利かせてくれたんだと思う。たまにはのんびり、子ども抜きの二人でゆったりと。実家が遠いのだから、余計に。
「なるほど! だから、カレー!」
――それに伊都って、少し引っ込み思案っていうかさ、ぽーっとしてるっていうか、あんたに似てちょっと天然じゃない? 一人旅くらいさせなさいよ。って、車で迎えには行くけどさ、大丈夫よ。遠慮しないで! うちの旦那にしてみたら、女ばっかりの中、味方ができるって大喜びなんだからさ。
伊都は、俺たちが少し驚いてしまうほどあっさり手を振って、元気に向かったけれど、今、どうしてるかな。大丈夫かな。楽しんでるかな。
――たまには、夫婦じゃなくて、夫婦……じゃないのか、男同士だから。漢字が変わるのかな。でも、たまには恋人同士って雰囲気楽しみなさい。
そんなふうに伊都のことを想う気持ちと一緒に。
――パパだって、たまには臨時休業していいのよ。
睦月と過ごす時間を楽しみにしてる自分もいた。前だったら、そんなのダメだ。甘えるな、頑張れって思っていたかもしれない。でも、最近は肩の力を抜くことにしたんだ。
『千佳志さん』
睦月が一緒にいてくれるから。手伝ってくれて、一緒に、伊都を育ててくれるから。そう思えたら、急に気が楽になって、視界が開けた。伊都はたくさんの人の手で育てられてるって。
「じゃあ、めっちゃ激辛のにするんですか?」
「うん。そうしようかなって。でも、食べられるかな。もう随分辛いの食べてないからさ」
「たしかに! 私も、この前、カップラーメンの坦々め」
「すいませーん」
声をかけられたほうに顔を向けると若い男の子が事務所のところに立っていた。たしか今年営業課へ入ってきたばかりの新人さんだ。背は高くて睦月くらいはあるかもしれないけれど、見た目が幼い。そう、見えるのはスーツ姿がぎこちないせいかもしれないけれど。まだ慣れていないのがありありとわかった。そんな彼が周囲を見渡し、昼休憩中でほとんどのデスクが出払っていることに困った顔をした。
「あ、あの、この伝票は……」
「あぁ、それは向こう、山田さんの机に置いておくんだよ。あそこ、右から二つ目のデスク」
言いながら、指でそのデスクの方を指し示すと、あるで猫が猫じゃらしを見つめるように、彼が俺の指先を目で追いかけた。
たぶん、デスクに置いてくるようにと言われたのだけれど、まだ顔と名前が一致してないし、そもそもデスクに山田さんがいない。どこに置けばいいのかわからなかったんだ。
「…………行かないの? お昼休憩終わっちゃうよ? 置いておいてあげようか?」
「あ、ありがとうございますっ、こちらこそ、お昼休憩の時にすみませんっ」
「どういたしまして」
きっと忙しくてまだお昼にありつけていないんだろう。お腹が空いてるのかもしれない。俺の顔を見ながらボーっとしていた彼に、ほら、と仕事を急がせた。
「……ぁ、えっと、それで坦々麺がどうしたんだっけ」
「アハハ。たいしたことじゃないんです。坦々麺とかピリ辛系は大好物だったのに、この前食べたら、めちゃくちゃ辛くて食べるの大変で。じゃあ、帰りはお買い物ゆっくりできますねぇ。仕事後の買い物って慌しいですもんね」
「そうだね」
たしかにそうなんだ。いつもだったら、伊都を学童に急いで迎えに行って、それから慌しく食材を買う。急いで帰らないと、翌日の伊都の学校の用意もあるし、宿題も見てあげないといけないし。睦月が半分ずつで一緒にやってくれるけれど、でも、できるだけゆっくりさせてあげたいだろう? 睦月も、伊都もさ。とくに睦月は体が資本の仕事だから。風邪も引かせられないし。
けど、スーパーだろうと買い物に伊都がいると寄り道が多くてさ。同じ歳の子に比べるとおっとりしているけれど、でも、やっぱりそんなところはまだ子どもなんだよね。
――ねぇ、お父さん。お菓子ひとつ買ってもいい?
そう言って、歳相応にねだる伊都を思い出した。
「あ、なんか、笑ってる」
「え? あはは」
いつもなら、困ったなぁ、早く帰らないといけないんだけど、って時計を気にしてしまうのに。今、藤崎さんに指摘されて、ごまかしながら、頭の中では「ひとつだけね」そう言った時の満面の笑みの伊都が思い浮かんで、今頃、伊都はそう言って姉夫婦を困らせてやしないかと、ちょっと笑ってしまったんだ。
ともだちにシェアしよう!