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恋人編 2 甘い甘い中辛カレー

「う、うーん」  どっちだろう。 「……」  辛口のカレーにするか、中辛にするか。激辛っていうのもあったけど、もうそれは論外でやめておくことにしよう。きっと絶対に無理だと思う。藤崎さんの二の舞になってしまう。俺としては――。 「中辛」  でも、睦月としては――。 「辛……口?」  でも、睦月だって一緒に暮してて、一緒に夕飯食べてるし、お弁当も俺とお揃いだし、そしたら辛味に関しては子どもレベルまで下がってると思うんだ。いや、下がってるでしょ。だから、やっぱり……あー、でも、辛いの食べたいかな。すごく辛いやつ。今しか食べられないのなら、思いっきり振り切れたのほうがいいのか? でもやっぱり、激辛、は、ない。だから、ここは辛口にしておくべきか。 「うーん」  中辛にしておくべきなのか。そこが、問題だ。なんて、普段だったら、パッと手にとって決まりなのに、ゆっくり考えられるのがなんだか変な感じがする。どっちにしようかな、なんてさ。 「こ、こんばんは」  いきなり声をかけられてびっくりして、思わず、肩がビクンと揺れてしまった。 「あ、君は……」  昼間の新人君だった。職場で見た時よりももっと幼く見える。もう就活中の大学生となんら変わらないかもしれない。そんな彼がスーツ姿でここにいると、まるで今からスーパーの面接に向かうみたいに見えた。 「お昼の時、ありがとうございました」 「アハハ、あの程度のこと気にしなくていいよ。仕事帰り?」  たしか、営業の新人だ。入ったばかりの子は定時で上がらされる子が多いけれど、彼の場合は部署が部署だから、さすがに定時上がりの事務職の俺と同じ時間帯っていうことはほとんどありえない。なのに、今この時間帯に、ここにいる。彼もそれをサボりだと思われたと心配になったのか、返事に困っている様子だった。 「大変でしょう? 営業は」 「あーはい」 「っぷ、はっきり答えるね」 「あ! いえ! 大丈夫ですっ!」  今時の子なんだなぁ。背の高さもそうだけれど、物怖じしないっていうか、マイペースっていうか。伊都もいつかこんなふうにぎこちなくスーツを着るのかな。どんな仕事に就くんだろう。サラリーマンとか、かなぁ。でも、睦月にある意味ぞっこんだから、スーツを着るような仕事は選ばないかもしれない。もっと、伊都らしい何かを見つけるかもしれない。 「家は近所なの?」 「あ、えっと」 「って、そこはプライベートだね。ごめんごめん」 「あ! いえ! 近所、ではないんですけど」  そりゃ、そうか。まだ仕事中っぽいから、きっと外回りの途中なんだろう。夕方で一雨降らないかなって願ってしまうような、うだるほどの暑さだから涼みたいと思ったんだ。  暑いよね、と笑いかけると、じっとこっちを見つめていた。 「あの、先輩は……」 「千佳志」  今度は、背後から突然名前を呼ばれても驚くことはなかった。  その声は伊都の次によく耳に馴染んだ、甘くて優しい恋人の声だったから。 「睦月」 「ちょうど会えた」  ニコッと笑って、俺の前にいる新人君へと視線を投げる。 「それじゃ、失礼しました。俺、まだ仕事あるので」  そう言って彼はまだ不慣れな会釈をして、急ぎ足で行ってしまった。 「……やっぱり仕事中だったか」  そうだとは思ったけど。ぼそっと呟いて、今時の子だからってわけじゃないけれど、営業職は長く続くスタッフが少ないから、彼はどうだろうかと考えていた。自分が元営業だったこともあるかもしれない。やっぱり少し気にかかってしまうんだ。自分も数字に追われる毎日だったから。ただ、俺は成果が目に見えるそんな仕事も嫌いじゃなかったらよかったけれど、ああいうタイプの子は長続きしないかもしれない。ちょっと不器用そうなところがあってさ。 「会社の子?」 「うん。そう」 「……」 「睦月?」 「……」 「……もしかして、ヤキモチ?」  覗き込むと、珍しく口をへの字に曲げた。 「ただの会社の子だよ? しかも、どんだけ歳が離れてるんだか。新卒の営業の子だよ? まだ、子ども。今日、昼間にわからないことがあって困ってたんだよ。ちょっと案内してあげただけだよ?」  わかってる、わかってるけど、でも。そんなジレンマが口元にくっついてるような気がするへの字がとても可愛くて、ちょっとさ。 「なんで笑ってるんです」 「だって」  笑ってしまうだろ? 君のことが今、とてつもなく、可愛く見えてたまらないんだから。 「だって、さっき、俺のこと、千佳志って名前だけで呼んだ」 「それはっ!」  普段は「千佳志さん」って呼んでくれる。呼び捨てはとても大切な時にしか呼ばないんだ。その「千佳志」って呼ばれるタイミングの絶妙さに毎回たまらなく蕩けてしまうんだけれど、こんなパターンもあるなんて。 「俺、もういい歳した子持ちのサラリーマンだよ? あんな若い子は」 「あのねっ! 貴方はっ!」 「君くらいだよ」 「そんなことないです」 「君くらいだって」  頑なに首を横に振られると、くすぐったくて困ってしまう。本当にただの男で、ただのパパで、ただの事務職サラリーマンなのに、君が横に首を振れば振るほど、とても愛されてると告白されてる気分だよ。  あぁ、くすぐったくて仕方ない。 「君だけでいいし」  同じ言葉の応酬にじっとしていられないほどの甘さを覚えてしまう。また口をへの字にした君に笑うけれど、考えたらここはスーパーマーケットだった。デートじゃないのだから、ほら、カレーを選ばないと。それに――。 「千佳志さん?」  それに少し睦月の髪が濡れてる気がした。今日はたしかに早番だと聞いていたけれど、それでも早すぎる。 「ね、ルーはどっちがいい? 中辛と辛口」 「激辛がいいです」 「えっ?」 「嘘です。中辛がいいです」 「もぉ……」  今度は俺が口をへの字にして、それに楽しそうに笑っている。そんな君に風邪を引かせてしまったら大変だ。きっとろくに乾かさずに自転車でここまで来てくれたんだと思う。夏だからって、濡れた髪で自転車なんて。秋には大会がまたあるから、練習これから厳しくするって言ってたくせに。  急いでくれたこと、外ではこの関係は秘密なのに、俺にはわかってしまうほど警戒心丸出しで、ただの新人君にヤキモチをしてくれたこと、への字に曲がった唇さえ愛しいから、早くおうちに帰ろうって、いつもみたいに買い物を手早く終わらせた。

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