68 / 113
恋人編 5 したくないこと
営業にいた時は残業あたりまえ、九時前に帰れたらラッキーだった。外回りして、躍起になって仕事を取ってきて、それが数字に変換され、週初めにあるミーティングで営業実績としてアシスタントから報告が上がる。まるでランキング番組のように、最下位から順番に読み上げられる名前に自分の名前がまだ挙がらないことが誇らしかったっけ。認められてる。仕事で成果を出せてる。それが楽しかったんだ。
ちょっと今の自分からは想像もできないけれど。
「藤崎さん、お疲れ様です」
「お疲れ様でーす。急がなくっちゃ! 学童!」
「ガンバレー」
手を振って見送ると「のんびりいいなー」って声が遠くから聞こえてきた。
ホント、今の自分とは大違いだな。
あの時はあの時で楽しかったよ。仕事にやりがいを感じてた。でも、今は、仕事の楽しさというか、時間の過ごし方が違うかな。
今、とても幸福だと思う。
「そこじゃあ、タクシー掴まらないよ」
「!」
あの新人君が大通りに立っていた。下請け企業へでも、客先でも、急遽、どうしても届けないといけないものがあったりするとさ、新人営業マンは配達係りとして出動させられることがよくあった。定時上がりの時間帯、社用車は営業スタッフが使ってしまっている。現場スタッフも夕方は何かとバタつく。そんな時に入る「どうしても」は大概新人に押し付けられるんだ。それこそ、「はい、宜しく」そんなノリでさ。
「佐伯さん……」
「ここ、この時間帯、あんまりタクシー通らないんだ。その箱を届けるの? あんま重くないなら、それ持って、向こうの通りに出たほうが早いよ。俺の車に乗せてあげてもいいんだけど、もう俺、退社しちゃってるからさ。大変だろうけど、頑張って」
こんな時、変わったなぁって思うんだ。親になったからかな。おせっかいに、なったよね。
「あ、あの、佐伯さんって……」
「?」
「あ、いえ……優しいですよね! その、営業の先輩と違って」
「ちょっと怖い? 大山(おおやま)とか?」
「あ! はい!」
その名前にこれでもかと同意されて、思いっきり頷く新人君につい笑ってしまった。
同期のひとりで、今も営業にいる奴だった。怖くはないんだけど、早口で話すから、まくし立てられてるような気持ちになるんだよ。新人のこの子にしてみたら、ちょっと怖いだろう。
「でも、良い奴だよ」
「うっ、けど」
「教わると早口でわかりにくいんだろ?」
でも新人だからさ。とにかく頷いてしまうんだ。で、次の時に同じことで困ってるところを見つかって、一回説明しただろうと怪訝な顔をされるっていうよくあるパターン。前の、営業にいた頃の俺なら、この新人君に何も言わなかった。けど、今は、伊都がいるからさ。睦月っていう、人に何かを教える仕事をしている人が隣にいるから。何か手伝いたくなる。
「わかりません。教えてくださいって言ってごらん? けっこう、話せば気さくな奴だ……ったかもしれない」
「ぐっ、な、なんで、過去形なんすかっ!」
「あはは、冗談だよ。大丈夫、ホント、気さくな奴だから」
「もー、なんか、佐伯さん」
ケラケラと笑ってしまってちょっと恥ずかしかった。年上なのに子どもみたいにはしゃぎすぎたかなと、呼吸を整えながらも、やっぱり笑ってしまいそうで。
「佐伯さんって……なんか、すげぇ話しやすいです。なんか、あの……」
笑わないように視線を通りの向こう側に送った時だった。
「素敵な人だなぁって」
そこに睦月がいた。歩いたのか自転車を押しながら、隣には女性がいた。いや、女の子、かな。学生っぽいけど、でも、女の子が目を輝かせて睦月の隣に立っていた。
一緒に帰って来た。いつもなら宿題をさっさと済ませてテレビを見たい伊都の騒がしい音読の声が響くけれど、今日はふたりだからとても静かだ。
「さっきの、昨日、スーパーでも話してましたよね」
少し不機嫌そうな睦月の声に、その静かな空間が少しピリつく気がした。
「あーうん。会社の新人。営業に入ったんだ。俺、昔は営業にいたから」
その新人君は教えられたとおり別の通りへとタクシーを掴まえに行った。急遽で運ばなければいけないものを任されてるんだから、ほら、急がないとって、そっちへ向かわせて。ちょっと立ち話が長くなってしまったけれど。ちょっと、楽しくて、急かすのを忘れてた。
「でも、今は営業じゃないですよね」
「そうだけど」
そんな俺と新人君を見て、苛立っていた睦月が溜め息を吐いた。ふたりっきりのリビングの空気がまた少し重くなる。
「昨日は偶然かもしれないけど、それでも、営業があの時間にスーパーにいるっておかしくないですか? もしかして追いかけてきたんじゃないかな。ストーカーとか」
「そんなんじゃっ」
「でも、おかしいでしょ? うちの近所なんですか? そうじゃないのなら尚更怪しい」
「でもっ」
だからって、ストーカー呼ばわりは過剰すぎるだろう? そこまで過敏になる必要なんてないじゃないか。
「貴方は油断しすぎだ」
「!」
「もう少し、自覚してください」
溜め息混じりに呆れたように言われた。それがとても……寂しかった。
「自覚って……」
「あの彼は貴方のことを」
昔のほうがしっかりしてたと思う。もっと、緊張していたと思う。営業にいた頃も、伊都と二人暮しだった頃ももっと自分が頑張らないと、自分がやらないとって、自分の足を、背中を、急かして押して、強引に動かして、前に進んでた。でも、今はそこまでしなくていいから、もっとふわりとしていても大丈夫だから。追い詰めなくても、躍起にならなくても、いいかなって思えてたのに。
「自覚って、そんなの! 睦月もだろっ!」
「?」
「女の子と一緒だったじゃないかっ!」
「ちょ、あの子は同じジムのユース選手で」
そんなのわかってる。君が恋愛対象にしてないのなんてわかってるし、あの学生が君に憧れていたとしたって、そんなの他愛のないことで、自覚とかそんなことを言い出すようなことじゃないって。
「俺もそうだよ。あの新人が困ってたからアドバイスをしただけのことで何もない」
「貴方はそうでも」
「じゃあ、あの子だってそうだろ? 睦月に憧れてる。憧れ以上かもしれない。今回だけじゃない、俺は、何度も見た! 睦月のことを好きな女性を何人も見たし、告白されてるところだって見たことがあるよ! それは? 俺、その度に目くじら立てて、ムスッとしたりなんてしてないけど?」
「目くじら立ててって思ったんですか?」
「っ」
「ムスッとしたって、腹立ててるって?」
「っ」
だって、そんなの、でも、じゃあ――伊都には使って欲しくない言葉ばかりを言ってしまいそうで、口をつぐんだ。
「……ごめん、千佳志さん」
「……」
「明日も仕事あるのに、変な雰囲気になりました」
「……」
三人でこの部屋に住むようになってから、初めての感じるこの空気はあまりに重くて、ずっしりとした気だるさがあって、なんだか部屋そのものも、息苦しそうにしている気がした。
ともだちにシェアしよう!