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恋人編 6 ホームシック

 朝も空気が変わらず重かった。  喧嘩はあまりしない。しないけれど、皆無ではなくて、小さく口をへの字にしてしまうことは何度かあるけれど、翌日には笑って「昨日はごめん」って言えるんだ。伊都が俺と睦月の間で朝日みたいに元気に笑うから。  明日、俺も睦月も休みなのに。  ふたりでスパークリングワインでも飲んで、ゆっくりしたかったのに。  ――行ってきます。  そう言った睦月の声は沈んでた。背中も少し丸まっていた。テンションがさ、上がらないっていうか、昨日の沈んだままの低空飛行が続いてる感じ。何かきっかけがあれば、ポーンって、ホント、軽やかにポーンと高いところに跳ねてあがって行けるのに。 「ホームシックですか?」 「え?」 「なんか、今日はずっと元気がなかったから。せっかく明日はお休みなのに」  藤崎さんが覗き込んでふわりと笑った。 「伊都君、いないですもんね。でも、ホームにいるのは佐伯さんのほうだから、ちょっと違うのか……」  今度は小さく唸ってそんなことを呟く。  彼女は良い友人だ。たくさん話すし、たくさん相談し合った。晩御飯の話しもするし、伊都のおねしょが止まったタイミングだって彼女は知っている。何でも知っているけれど、でも。 「うん。ホームシックなんだ」 「?」 「ホームが恋しくてさ」  でも、睦月はもっと近くにいる。きっと誰よりも近いところ。恋人で、家族で、ずっと隣にいてくれるパートナー。 「あ、チャイムだ! よし! 帰りましょう! わーい。今日の晩御飯何にしよう。佐伯さんとこは、なんですか?」 「うちは……そうだな」  いつもは食べられないイタリアンとかがワインには合うかな。鷹の爪をたっぷり入れたアラビアータと、チーズと、サラダは伊都の苦手なアボカドをたっぷり使って。そう彼女に教えたら、お箸持参で伺いますねって笑っていた。  外に出るとうだるような暑さはあるけれど、風が吹いてるせいか、心地良かった。 「あ、あの……」  昨日と同じ場所、あの新人君が手ぶらでそこに立っていた。  まだ日は高い。この時間、この季節は夕日には程遠い燦燦とした太陽が照りつけている。でも、新人君は夕焼けの中にでもいるように顔を真っ赤にしていた。何か言いたそうに口を開いて、身構えるように手をぎゅっと握って。 「あの、俺」  まるで今から告白でもするように。 「俺、小山田っていいます! えっと、佐伯さん、あの、今度飯でもっ」 「小山田君」  元営業課の人間から色々教わりたいだけかもしれない。そのための時間として、晩飯どうですかっていうさ、他意はないのかもしれない。営業の人間はいつだって忙しいだろうし、どこかやっぱりハキハキしてるというか、数字に晒される日々はたしかに言葉とか視線を鋭いものに変えてしまうのかも。だから、そこから何年も離れていた俺は話しやすいだろうし、相談もしやすいだろう。営業のことなら知識だけ残っているわけだし。  ただそれだけだよ。きっとさ。でも――。 「ごめんね。小山田君。仕事でわからないことがあったら、大山に訊いたほうがいい。俺はもうそこを離れて長いから、システムとかきっと変わってるだろうしね」 「あ、あの、そうじゃなくてっ」 「そうじゃないのなら、尚更、ごめんね。それじゃあ」  でも――。 「……おかえりなさい、千佳志さん」  君が迎えに来てくれた。 「……ただいま」  俺のパートナーの可愛いヤキモチはたまに見るくらいでいいや。 「怒らないの? ほら、だから言ったでしょう? 貴方は危機感がー……って」 「……言いません。っていうか、昨日は」 「ごめんね」  君は俺のパートナー。毎日デスクで顔をつき合わせて、色々相談した藤崎さんよりもずっと近くて、ずっと俺の内側にいる、俺の家族。 「怒って、束縛してくれるかと思ったのに」 「!」  君は家族だから、俺と同じように寂しくなってしまったんだ。伊都がいなくて、少し物足りない、少し広すぎる気がする我が家になんとなくホームシックになってしまった。家じゃなくて、俺と君と伊都で「ホーム」だから、ちょっと欠けてしまっているところがあるのが寂しい。 「俺こそ、しょうもないこと言ってごめん」 「そんなことっ!」 「でも、ちょっとずっと心配なのは本当。でも、それはずっと心配なことだから仕方がない。睦月カッコいいもん」 「……貴方は色っぽいし、綺麗ですよ」 「っぶ! 直球で、なに言ってんの?」  本当ですってば! ってムキになる睦月が今度は可愛くて、声に出して笑うと、鞄から取り出した鍵の鈴も軽妙に聞こえた。車の走り去る音も、どこかで鳴らされた自転車のベルの音も。全部、軽やかで楽しそうな音に変わった。 「もう、貴方は……」 「ね、睦月」 「……」  あと一日ある。 「今夜はお酒飲もうよ。辛いトマトソースのパスタに、ピザも食べる? 伊都が苦手そうなバジルソースの。それとワサビドレッシングをかけたアボカドサラダ」 「……」 「伊都が帰ってくるまでだからさ」  君は俺のパートナーで家族。それを常に最優先にしてくれる君だから、それをあたりまえのように受け入れてくれる君だったから、恋をした。恋を。 「恋人、しようよ」  笑いながら、身体は少しじれったそうに熱を帯びてた。日中と変わらない陽差しが段々と落ち着いてきても、身体は熱くなっていくばかりで。赤くなってきた夕陽に合わせるように、頬も赤くなっていくように感じる。  振り返ると睦月の瞳が濡れたようにみずみずしかった。ハッとしたように、少しだけ見開いた瞳の奥に俺と同じ熱があるのがわかって、それがまた俺を火照らせる。だから――。 「ね? 睦月」  今しかできないことを、君としたいんだ。

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