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恋人編 8 アイムホーム
「おとおおおさああああああん!」
丸三日ぶりの伊都の声は大きくて賑やかで騒がしいのに、とても気持ちが落ち着く。
「おかえり。お義兄さん、すみませんでした。伊都、騒がしくしなかったですか?」
「ぜーんぜん。伊都はえらいよなぁ。うちの娘のほうがよっぽどガサツだよ」
豪快に笑って、運転席から伊都の頭を鷲掴みにできそうな大きな手で撫でて、そしてまた笑っていた。
また泊まりに来いや、と言って車を走らせ帰っていった義兄に、大きくうなずく伊都はたったの三日で見事に日焼けしていた。もう丸焦げっていえそうなほど。渓流遊びに、魚釣り、サッカーチームに飛び入り参加はするし、そのサッカーチームで行われた花火大会に混ぜてもらうし。とにかく楽しい三日間だったらしい。
俺が友達を作るのが上手なほうではないから、伊都もそんなところだけは似てしまったようにで、少し人見知りするほうだったけれど、今、大興奮で話してくれる三日間にわたる冒険記はとても楽しそうなことばかりだった。
「それで、プール行ったんだ! 市営プール!」
「へぇ」
「睦月に教わったメドレーのターン、ばっちりできたよ!」
「おーすごい」
冒険記は止まらなくて、夕飯を食べてる間も続いてる。今は、三日目に行ったプールのこと。睦月に習って、ほぼ毎日泳いでいる伊都にしてみたら、流れるわけでも、波が起きるわけでもない、なんの変哲もないプールでさえ、最高の遊び場だった。
練習していたターンが上手にできたとコーチでもある睦月に自慢気で、そんな伊都に睦月は優しく微笑んでいる。
「そしたらさ、知らない子なんだけど、女の子に話しかけられた。花火大会、一緒に行かないかって。その日の夜にあったんだ。駅前で、それに誘われた」
「へぇ、すごいじゃん。デートのお誘いなんて。一緒に行ったの?」
「んーん。行かなかった」
今日の晩御飯は野菜炒め。睦月も伊都も大好きでいてくれる、俺の一番の得意料理。
「なんで? せっかく誘ってくれたのに」
「んー……なんとなく!」
そう言って、少しだけ気まずそうな顔をした。最近、大人っぽいというか、子どものはっきりとした喜怒哀楽以外の表情をたまにするようになった。イヤな感じではしなくて、伊都は伊都なりに考えるところがあるんだと思った。
まぁ、人見知りだから、さすがに初対面の子とは花火大会はちょっと無理か。
「それに、おばあちゃんたちと、西瓜食べながら見たかったから。でーっかい西瓜! 冷蔵庫にあって、びっくりした」
パッと、伊都の表情が子どもらしいものに戻る。西瓜が好きだから。おやつに出すと、ぴょんぴょん跳ねて大喜びだったっけ。麻美も西瓜が好きだった。
「そっか。うちはいつもカットのだからね」
でも、そのうち、丸々一個で買っても、あっという間に食べ終わってしまう日が来るかもしれないなぁって。家族三人、今は小学生の伊都だって、これからどんどん、食べる量は増えていくんだろうからさ。
「お父さん! おかわり!」
ほらね? あっという間にご飯一膳が伊都の胃袋へと消えた。
「はーい」
「そだ! 僕がいない間、どうだった?」
ご飯をよそりに行こうと席を外した時、伊都が睦月に無邪気な声でそんなことを訊いた。親の俺じゃなくて、ヒーローで憧れで、そして家族である睦月に。
「寂しかった?」
当たり前のように、尋ねられる質問。でも、それを当たり前のことのように、特別ではなく、身構えることのない会話になっていることが、とても愛しいなぁって、ご飯のふわりとした湯気の中でつい表情が緩む。
だって、それは家族だっていう証拠でもあるからさ。
あのね、伊都――俺と睦月はね。
「寂しかったよ? 静かだったし、伊都はどうしてるかなぁって思ってた」
「俺はね、楽しかったよ! あ、そうだ! そのね! ターンの時さっ」
また再開されるスイミングの話。伊都の頭の中はいつだって水の中のことばかり。とても楽しそうに泳ぎのことを話すんだ。泳げなかったなんて、今となっては信じられないくらい。
「はい。伊都。ご飯」
「あ、お父さん、ありがとう」
振り返って、伊都と睦月が楽しそうに話すのを眺めながら、「ホーム」を感じた。伊都がいて、俺がいて、睦月がいる。このあったかい湯気の立ち込める、ここが「ホーム」だなって。
「どういたしまして」
そう思ったんだ。
翌日、日曜で仕事は休み。家族全員で洗濯物を干し終えてから、近くのショッピングモールへ。夏休みで子ども向けの映画が目白押しだから、それを観に行こうって。
「うわぁぁぁ」
吹き抜けになっているメインエントランスには、伊都が観たがっていた映画に出てくるモンスターの等身大ポスターが待ち受けていた。飾られているというよりも、そびえ立っているって感じ。
伊都がその足元まで駆け寄ると、目を輝かせて、そのモンスターを見上げる。学童に通っている友達と話題にのぼっていた映画だったから。
「おとおおさああああん!」
早く行かないとって、もう顔が物語っていて笑ってしまった。
「むつきいいいいいいい!」
「ちょ! 伊都! 静かにっ」
もう大興奮だ。俺たちを急かそうとその場で手を必死に振って呼んでいる。チケットなら昨日のうちにネットで買ってあるから大丈夫なのに、それでも待てないらしい。
「もう! お父さんも睦月も遅いよ! 早く早く!」
「平気だってば」
「じゃあ、ほら、伊都、俺と、千佳志さんのコーヒーと、それから、好きなもの買ってきて」
「はいっ!」
こんな時は本当に子どもだ。受け取ったお金を持って、急ぎ足で売店へと向かっていく。
「いいのに、お金」
「家族デート」
周囲は夏休みを満喫する子どもで溢れ返っていた。そんな中、馴染んだ君の温かく落ち着いた声が心地良い。
「楽しみにしてたんです。洗濯物を干しながら」
「……っぷ、伊都にそっくり」
「家族、ですから」
うん。伊都は君にとても似ている。血は繋がっていないのに、仕草や、ふとした時の行動も、俺より君に似ているんだ。俺の自慢なんだよ?
伊都はきっと、とてもかっこいい男の子に育っていくんだろうなぁって。
「ね、睦月」
「?」
君によく似た、カッコいい男の子に。
「楽しかった。三日間」
「喧嘩、しちゃいましたけどね」
「ううん」
とてもモテそうだ。君と同じで。
「喧嘩も、楽しかったよ?」
「……」
「普段はあんなふうに喧嘩できないから。でも、そう思えるのは、睦月だからだよ」
ちょっと、映画館の騒がしい中で告白するのは恥ずかしかったけれど、今くらいしか、ゆっくり話せないだろうから。きっと観終わってからは、伊都が大興奮で映画の話をしているだろう。
「楽しい三日間だったよ」
スーパーでの、のんびりとした買い物も、その帰り道も、甘い時間も、喧嘩も、仲直りも、恋人同士でする、ひとつひとつの出来事全部、睦月となら楽しいよ。
「俺も、楽しかったです」
「うん」
「でも、伊都がいるこの時間は俺にとって」
「うん」
「おとおおおおさああああん! むつきいいいい!」
そこで、伊都が、映画の後のランチはどうするつもりなのかと心配になるほど、トレイいっぱいに何かを買い込んでいる。そして、そのトレイを慎重に運びつつ、いざ! 映画へ! と、嬉しそうに、けれど、まだ心配になる覚束ない足取りで俺たち「家族」を呼んでいた。
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