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2回目のバレンタインSS 6 買い物カゴ

 どこに行くの? そっち、文房具コーナーだけど。それに、さっきの彼、置いてけぼりになってしまったけれど。 「……全く貴方は」  帰宅ラッシュの時間帯。お惣菜だったり、食料品コーナーのほうは賑わってても、文房具のほうは人がほとんどいない。俺と、睦月しかいない。 「今のは?」 「え?」 「あれは誰です?」 「あー、配送業者さん」  は? なんて言ってそうな顔をしてた。  表情だけなのに、は? なんで配送業者が卵を貴方に押し付けてるんです? そもそも配送業者って、職場の? 同じ職場の人間ですらないってこと? ただの配達人が、同じスーパーで卵をどうして貴方に? 偶然? もし偶然だとしても、普通は卵を押し付けたりしないでしょう?  そのくらいの疑問は投げかけられた気分だった。 「たまたま、じゃない?」 「あのね……貴方は……」 「考えすぎだって」 「千佳志さんっ!」 「ないってば」  はぁ、とすごく重たい溜め息をついて、頭を抱えてしまった睦月には申し訳ないけれど、普通に考えて、君が心配しているようなことはひとつもないよ。だって、そうだろう? 俺、男だよ? 君と出会う前までは自分の恋愛対象はずっと女性だったんだ。そして、彼は、もちろん男性でさ。卵がきっかけでどうこうなんてありえないよ。ものすごーい偶然ってだけの話だよ。  彼が俺に何か恋愛感情のようなものを持ってるなんてこと。 「ありえないよ」 「どうして貴方はっ!」  少し怒ってた。睦月は心配のあまり声を荒げて、そして、そんなふうに声を荒げてしまうことにも苛立っていた。  本当に心配しすぎだって思う。偶然。すごく稀な偶然だよ。  でも、君が同じ状況にいたら、ね。おかしいよね。きっと俺は睦月と同じように苛立ってしまうと思う。 「おかああああさん! あったよー! 糊ここにあったぁ」  小さな女の子。伊都よりも一回りは小さい女の子が、伊都と同じような言い方でお母さんを呼んでいた。 「……ないよ」 「そんなのっ!」 「だって、俺だよ?」  あの子よりは大きいけれど、子持ち、シングルファーザーに、そんな感情を抱く同性なんて、とってもとっても変わり者だと思うんだ。 「睦月くらいだよ」 「……」 「っていうか、睦月だけでいいよ」  笑って、そして、そこでようやく見つけた。 「……たま、ご?」  スポーツジム、スイミングのインストラクターで、運動神経抜群の、イケメンの買い物カゴの中には卵がワンケースだけ入っている。首を傾げると、苦笑いを零して、口元をちょっと歪ませた。溜め息が柔らかい。 「今日、特売って、スイミングの同僚が言ってたんです。貴方が買いに来るかもしれないし、けど、この時間じゃぎりぎり買えないかもって」  そう思って、買いに? 自転車で? けっこうあるよ? 睦月のスクールから、ここのスーパーマーケットまでかなり距離あるのに。 「似合ってないよ」 「え?」 「買い物カゴ、睦月似合ってない」  君の年頃の男性はあまり特売とか気にしたりしない人が多いと思うんだ。 「でも、似合ってる」 「どっちなんですか」  どっちなんだろうね。でも、去年の君だったらあまりしっくり来てなかったんじゃないかな。でも、一年かけて、洗濯物を一緒に干す君を、食器を伊都と一緒に仕舞う姿を、伊都のためにとチャーハンを作って失敗する君の背中を見てきたから、とてもしっくり来たんだ。 「あと、卵、ありがとう。これで、俺も買えたら、卵二パックゲットできたのにね」  ニコリと笑うと、観念してくれたみたいだ。 「でも、本当に気をつけてください」 「うん」 「ねぇ、本当にっ、今って、ストーカーとか、付きまといとかっ」 「大丈夫だよ。ありがとう」  それよりも、早く帰ろう。伊都がきっと待ってるよ。君が一緒に帰ってきてるって教えたら、とても喜ぶと思うから。自転車に乗っている君と並走したいなんて我儘だって言い出しちゃうかもしれない。ね? だから、早く、伊都を喜ばせてあげよう。 「ケホ、ケホ」 「大丈夫ですか?」 「んー……大丈夫」  でも、ないかな。ちょっと、本当に風邪かもしれない。熱は、どうだろう。熱を測って、それなりに高いってわかっちゃうと一気に具合が悪くなったように感じてしまうから、あまり計りたくないんだ。 「けど……」 「大丈夫! 今日、人少ないしね」  風邪、インフル、そういうのってすごく驚くほど一気に広まっていく。女性が多い事務職の場所だからか、そういうのは現場以上に色濃く浮き彫りになる気がする。人事のほうにいる三人のうち、二人が休み。うちの経理課でも四人のうち二人が休んでる。本人の病欠って言うこともあれば、時期が時期で保護者会っていう人も一人いるし。お子さんが体調不良でっていう人も。  だから事務所が手薄で、電話の対応、いつもの業務、それに手配だなんだで、朝からバタバタと忙しかった。その中、休めない雰囲気というかさ。 「ケホ」 「すんませーん」 「……はい、あ、卵の」 「どうも」  昨日の配達の人だった。チラッとこっちを見て、スッと目を逸らしてしまう。けど、いつもと違って、どうもって言われた。それに、いつもと違う時間帯の配達だ。普段、お昼に来るのに、今日は終業間際の時間帯。急ぎの配達なのかな。 「ご苦労さまで、」  急ぎ、なんだろう。俺が挨拶を言い終わる前に、彼は、ハンコを押した伝票を鷲掴みにして、走っていってしまう。あの、なんていってるのかちっともわからない「……っす」っていうのもなかった。 「……行っちゃった」 「配達屋さんですか?」 「うん。ケホ……」 「珍しいですねぇ、あそこの業者さん、いっつもお昼に来てたのに」 「……うん。急ぎだったのかもね」 「ふーん」 「昨日、スーパーで偶然会ってさ」 「え?」  すごい偶然だったんだ。卵のセールあったでしょ? それに慌てて行ったら、いたんだ。で、卵をどうぞって言われたんだけど。 「えー? 何それ、なんか微妙じゃありません? 卵譲るって、なんか、なにそれって感じ」 「あは。なんか、変、だったりする? よね? 俺は、そこまで変とは思わなかったんだけど、彼が、さ」  藤崎さんが首を傾げた。 「その、睦月が、来て、卵けっこうですってさ」 「……」 「それで、なんか、挨拶もちゃんとせずに、その場を離れたから」  もしかしたら気まずくなっちゃったのかもしれない。なんか、向こうは向こうで変な空気になったよね。親切で譲ろうとした卵を突っ返されて、挨拶も適当に走り去ったのとあまり変わらない態度を取っちゃったわけだから。なんだよって思ったかもしれない。 「くああああああ!」  飛び上がるほど大きな声をあげて、藤崎さんがデスクの上に突っ伏した。 「ちょ、どうしたの? 藤崎さん」 「もおおお、ただの惚気聞かされちゃったんですけど!」 「ぇ? ちがっ」 「はいはい。イケメンのヤキモチほど美味しいお餅はないですよー。ごちそうさまでーす。あざーす」 「からかわないでよ。藤崎さん」 「あざーす」  冷かな声に冷めた表情をわざとしてみせる彼女が可笑しくて笑ってしまう。違うってば、そういうことじゃなくて、なんて否定したって「あざーす」を繰り返すだけで、でも、本当に違うとも言えない、ヤキモチが半分以上入ってる昨日の睦月を思うとくすぐったくて。咳をしながらも、おしゃべりをしていた時だった。  会社の電話が鳴った。終業五分前っていう、早く帰りたいママグループの従業員にとってはいやな時間帯。 「いいよ。俺、出ます」 「ぁ、平気です。咳、辛いでしょ?」  そう言って、藤崎さんが電話に出てくれた。 「はい……え? ぁ、あの……」  決まりきった挨拶分を言って、メモを片手に。けれど、藤崎さんは目を丸くして、事務所の入り口に置かれた荷物のほうに視線を投げた。

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