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おまけSS ある春の日
「おとおおおさあああああん!」
学童に向かえに行くと、とても嬉しそうな顔をしていた。
「おかえり、伊都」
「おかえりー! お父さん!」
始業式だけで、あとは学童に移動してお迎えを待っていた伊都が手提げバックを手に持つと、弁当箱がカランと音を立てたのが聞こえた。全部食べてくれたみたいだ。
いつもふわりとしている伊都のテンションがやや高めなのは、ランドセルの黄色いカバーなしになったのと、それと一階だった教室が今度は二階になって、ちょうどの高さで窓一面に満開の桜が見られるから。
今日から伊都は二年生になる。
「クラスどうだった? 仲良い子いた? 大君とか、あと、しょうちゃんと、ゆうくん」
「いたよー。でも、初めての子もいっぱいで楽しかった」
「そっか、それはよかった」
伊都は友だちを作るの上手だよね。
俺はそういうの下手だったなぁ。保育園から一年生に切り替わる時なんて、もう本当に大変だったっけ。
学校説明会、学童の説明会、それに小学校の準備。けど、そこに仕事、日々の家事、保育園のこと、あれやこれやがあってさ。藤崎さんにかなり色々相談したんだ。ママ友っていったら、藤崎さんくらいしかいなかったし。同級生はそれこそ仕事バリバリにやってて、子育ての相談には……ね。あんまり話せないから。かといって、同じ保育園のママさんともそう親しくできないし。
だから、けっこう大変だった。
毎日、ヘトヘトで、ボーっとしたい自分のほっぺたひっぱたいて頑張ってた。頑張れ、頑張れ、って自分で自分を応援してた。
「今日は! 宿題もなかったんだー」
「それはそうでしょう。始業式だけだもん。明日からはあるかもね」
「え!」
「あはは」
当時は口に出すのすらやめていた。口に出してしまった瞬間、疲れで足元から崩れてしまいそうだったから。
でも、しんどかったなぁ。
ひとりで、しんどかった。
「あ、そうだ! お父さん! 今度、エプロン使うんだって」
「え? そうだったっけ?」
「うん。そうだった」
そうそう、こういうのも疲れたんだ。急遽用意をしなければいけないものができてもさ、仕事してる間は買い物に行くのも大変で、帰ってからは夕食の準備にお風呂に洗濯、全部終わらせれば、もう寝る時間。いつ買いに行けばいいんだよって、誰かにとにかくぼやきたくなっては、そんな自分に自己嫌悪でさ。慌しい毎日。時間なんてちっとも足りないから、いつも伊都には「ちょっと待って」ばっかり言っていた。
「エプロン必要なんですか?」
ふわりと香るシャンプーの香り。もう春だけど、湯上りで半袖って、風邪引かない? スイミングで慣れてるのかな。睦月はいつも俺より少しだけ薄着なんだよね。
「あ、うん。伊都が言ってた?」
伊都と睦月がお風呂に入ってる間に洗濯物を片付けてた。今日は夜のうちに洗濯、できるかなぁ。それできるだけで朝すっごい楽なんだ。
「えぇ、調理実習があるからって。ゆで卵の係りって言ってた」
「うん」
だから、エプロン買わないといけなくなってしまった。一枚あったんだけど、いつの間にか小さくなってて、つんつるてんで使えなくなっていた。買わないといけないんだけど、でも、今週は新年度への切り替えで時間が……とはいえ大人のはダメだし。つんつるてんだし。
「俺、買ってきますよ」
「え?」
「スポーツクラブからうちへの途中に子ども服の店あるし。ほら、あそこ、伊都が好きな公園の隣にガソリンスタンドあるでしょう? あそこから少し離れた所に」
さっきお風呂の中で伊都と話して、リクエストならばっちり伺ってますって、睦月が笑った。
「明日、寄ってくるよ。あ、あと、何か買っておいたほうがいいものがあれば、教えてください」
濡れた髪をバスタオルで乾かしながら、睦月が俺の畳んだ洗濯物のうちタオルだけを持っていってくれる。タオルは引き出しの上から二番目。そこにしまったついでにキッチンへ寄り道をして麦茶を飲んだ。
「あ、麦茶、もうなかった、と思う。……やっぱりない。ねぇ、千佳志さん、ストックありましたっけ?」
「ぁ、えっと……ない、けど」
「じゃあ、それも買っておきますね」
誰にも言わなかったけど。言ったらその瞬間、疲れと不安と、ちょっとだけ感じる一人ぼっちの寂しさに足を捕らわれてしまいそうで、口にはしなかった。でも、一人でこなすのは、少しどころじゃなくしんどかった。
「千佳志さん?」
「……」
今は――。
「千佳志さん? どうかしました?」
「! あ、いや、なんでもっ」
今は、しんどくないんだ。
「ごめん。なんでもなく、ないや」
「?」
伊都はまだお風呂にいるみたいだ。やたらと伊都の歌声が響き渡ってるから、まだお湯に浸かってるんだろう。薄着の睦月はあまり長い時間湯船に浸からないから。
「あの……ありがとう」
「?」
だから、睦月の手を掴んで、引き寄せた。
「千佳……」
伊都の楽しげな歌声の中、リビングにはキスの音がした。
「エプロン」
キス、したかったんだ。
「別に、たいしたことじゃ」
「ううん。たいしたことなんだ」
「……」
「すごく、ありがと」
一人じゃない。睦月がいてくれる。それはとても、言葉で言い表せないほどの安心感がある。
「千佳志さん……」
それとね。
「ありがと。睦月」
当たり前のように君が「うち」と言ってくれたことも、すごく嬉しかったんだ。
だから、またキスをした。今度は急に溢れた恋しさから、しっとりと唇を重ねたくて、目を閉じて、湯の温かさを残す唇を啄ばんでみる。
唇が離れて、ちらりと覗き見ると、睦月が眉をひそめてた。ダメだった? 伊都がすぐそこにいるのに、ダメだった?
「ちょ、千佳志さんっ」
「?」
「今夜は」
うん。今夜、したいなぁって思ったんだ。二度目のキスはそんな誘いを含んだ柔らかさで触れたつもりだった。だから、その――。
「おとおおおさあああああん! お風呂どうぞおおおお!」
「「!」」
そこでタイルに響き渡ってた伊都の声が突然馴染みのあるいつもの声になった。
「あ、う、うん! 今行く!」
ふわりと漂った甘い恋の気配を慌てて掻き消した。
「は、はいはい。今、行く」
今日は宿題ないから、学童のレクリエーションの時間がたっぷりあったのかな。知らない歌だけれど、ずっと伊都は大熱唱してる。
「あ、睦月! エプロンのことお父さんに行った? 睦月が買ってきてくれるって」
「あぁ言ったよ。明日買ってくる」
「やた!」
一人じゃない。
ねぇ、睦月、君がいる。ただ、それだけで、こんなに気持ちがあったかくなる。春みたいにぽかぽかするんだ。
何気ない言葉、手、君の存在に胸のうちが桜と同じ色の花を咲かせたみたいに感じる。
「!」
ぽかぽか、じゃない、かも。うん。これは、春よりもちょっと熱い、かもね。
お風呂に向かいながら、チラッと振り返ったら、伊都の向こう側で、睦月が意味深なウインクをして、伊都が寝た後のことを楽しみにしてそうな、そんな笑顔をしていた。
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