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家族について編 3 可愛いと可愛いを掛けたら……

 ボーナスの査定業務は応接室にこもりっぱなしで行われる。個人個人の技量、日々の勤務態度などが顕著に数字出てしまうため、もちろん他言無用の超秘密厳守事項。 「あ、うん。藤崎さん、ごめん、今から売り上げ伝票処理するっ」 「お願いします。なんか、営業部長がすぐに今時点での数字を知りたいらしくて」 「は、はいっ」  缶詰状態の応接室から解放されて戻ってみたら、デスクの上にはびっしりとメモと伝票、メモと配達送り状、メモと……とにかくたくさんの仕事が並んでいた。 「佐伯さーん、二番に外注さんから電話でーす」 「は、はいっ!」  今、五時……えっ! 五時? もう五時?  あ、でも大丈夫、学童は延長しちゃうと思いますって伝えてあるし。伊都にもいつもより帰りが少しだけ遅くなるから、宿題は必ず学童で済ませておくようにって伝えた。だから――。 「もしもし、お電話代わりました」  だから。 「佐伯さーん、すみません。営業さんが代金変更したいって」 「はいっ!」  だから。 「佐伯さーん、ファックスが」 「はい!」  だから。 「…………はぁ」  ちょっと、ヘトヘトだ。  ちょっと、じゃないかな。けっこう疲れた。でも、少し懐かしい。時計なんて見る暇もなく仕事して、ふと顔を上げて目に入った時刻に驚いてしまうような感覚。時間があっという間にすぎていって、びっくりしてしまうんだ。え? もうそんな時間? って。  そんなふうに定時を少し回ってから、机の上を片付けて会社を後にした。  早く伊都のお迎えをって思いつつ、帰り道、コンビニに寄った。とにかく甘いものが飲みたくて、甘ければなんでもよかったから、パッと目に付いた中で一番甘そうな苺ミルクを手に取ったんだけど。それを片手で飲みながらの運転はスーツでするのは少し怖くて、飲まないままお迎えへ。  もうそこからは怒涛のように時間が過ぎていく。お迎えに行って、帰ってから夕飯の準備に洗濯物。途中、帰宅した睦月と、あと伊都と三人で家事を片付けて。 「いただきまぁすっ!」  って、したのは夜の八時近かった。 「あ! そうだ! 今日! 三人で食べようって思って、帰り道でコンビニに寄ったんだった!」  普段は車通勤だし、急いで伊都のお迎えに行かないといけないのにわざわざ車を停めてまでコンビニに寄ることなんてない。 「どうしても甘いものが欲しくて」  買ってきたのはプリン。 「小さいのだから、睦月も食べられるかなって」  アスリートだから糖分の摂取には気を使うけれど、とても小さいプリンだったし、卵たっぷりって書いてあったから大丈夫かなぁって。睦月はコーチの仕事もしつつ自分も選手だから、怪我の再発防止もあって、すごく気をつけてる。鶏肉のほうが筋肉とかには良いってテレビで見てから、実は、鶏肉の料理をよく作るようになったりとかさ。 「伊都は大きいの」  伊都は糖分なんて気にしなくて大丈夫。まだまだこれからどんどん成長期なんだから。 「やった! ありがとうお父さん!」 「こちらこそだよ。学童、たくさん待たせちゃったから」  罪滅ぼしっていうやつだ。遅くなってしまって、伊都は居残って待たせてしまって、寂しい思いをしてるだろうから。何か元気になれる、嬉しくなれるものを買って帰ろうと思った。 「いいのにぃ、気にしなくてぇ、そんなのぉ」  ちょっと、普段の伊都とは違う口調、ませてそうなその口ぶりが大人っぽくて、びっくりしてしまった。たぶん、学校生活の中、もしくは学童とかで誰かが言っていたのを真似てるんだと思う。 「美味しいぃー!」 「それはよかった」 「これなら、毎日遅くていいよ! お父さん」  げんきんだなぁって、笑った。そう言って、にっこりと笑う伊都に感謝だ。  でも、あのまま、一人で伊都を育てながら営業にいたのなら、こんな日々は当たり前なんだろう。そして、毎日プリンを買うことになってた。でも、きっと寂しい思いをたくさんさせてた。  今は睦月が一緒にいてくれるから、本当にどうにかこなせてる。 「ごちそうさまでしたっ!」 「え? もう?」 「うん! 歯、磨いてくるー! おやすみなさーい」 「おやすみ」  うちはお風呂が先だから。ご飯を食べて、少しお腹を休ませたら、歯を磨いて寝る。プリンを食べたというか、飲むようにたいらげちゃった伊都は駆け足で洗面所へと向かった。 「これ、美味いですよ? プリン」 「ホント? よかった。食べて大丈夫そう? 豆乳が入ってるらしくて、身体にいいって」 「へぇ」  またパクリと一口食べて、睦月がしげしげとプリンのパッケージを眺めてる。 「気に入った? そしたら、また買ってくるよ」  小さいけど、でも、大人気なんだって藤崎さんが教えてくれたんだ。めちゃくちゃ美味しいからって。伊都と睦月も喜ぶかなぁって。今日の帰り道にそれを思い出して、急いで買ったんだ。  美味しそうに食べてくれる睦月を、ソファに背中を預けながら、ぼんやりと眺めてた。 「……疲れた?」  食べにくいよね。じっと食べてるとこを横から見られてたら。目が合って、睦月がくしゃりと笑った。 「あー、うん、頭の中が数字でグルグルしてる感じ」 「へぇ、数字がグルグル。俺にはない感覚かも」 「そう?」 「身体が資本の仕事だから。でも甘いものが欲しくなるのは一緒だ。あんま摂れないけど」  その睦月がソファから立ち上がり、キッチンへと向かった。冷蔵庫を開けて何か探してるから、たぶんチューハイかな。睦月はビールをあまり飲まないんだ。糖質とか炭水化物とかのほとんどないチューハイを飲むこと多くて。 「これ、千佳志さん?」 「? あっ!」  苺ミルクを手に持ってた。 「あ、うん。それ飲もうと思ったんだけど、忙しくて飲めなくて」 「……」  飲まずにそのまま家に持ち帰ってきていた。あれば伊都が飲むかなぁって。  その苺ミルクをじっと見つめて、それから、今度は俺をじっと見つめてる。 「あの……睦月?」 「……」  ダメ、だったかな。こんな甘くて高カロリーのものなんて、絶対に飲めない。飲めないのに目に入ったら、ちょっとイヤだった? 「仕事帰りに?」 「う、うん……」 「スーツで?」 「うん。?」  頷くととても、とっても大きな溜め息が一つ落っことされた。 「睦月、あの、でも、伊都が飲むかもって」 「どうぞ、苺ミルク」 「あの……うん」  ストローを差して、ちゅぅって吸った。甘酸っぱい、でもミルクこってりとしたまろやかさが合わさって、疲れてる頭にちょうどいい。 「苺ミルクはダメでしょ」 「え! 飲んじゃった! だって、睦月がどうぞって! でも、ご、ごめんっ」 「スーツで苺ミルク飲んでる貴方とか、可愛いすぎでしょ」 「は、はい?」 「なので、ダメです」  ただの苺ミルクだよ? ただのサラリーマンだよ? 別にそこが合わさったって。 「可愛い人と可愛い飲み物掛けたらダメでしょ?」 「え、だって、そんなの」 「あーあ、俺も甘いの飲みたいのになあ……」 「ごめ、……」  睦月にしては珍しい口調。慌てて謝ろうと思ったら、ぶつかるようにキスをされた。  睦月が飲んだレモンチューハイの爽やかな酸っぱい味のキス。 「だから、今、味わいました」 「……」 「なんちゃって」  睦月には俺のこってりとした甘さの苺ミルクの味のキス。  微笑んで、小さな声で「甘くて美味しい」って呟かれた。  疲れた身体に甘い甘い――。  もっとキスをって、もっと甘いキスをって、そう思った俺たちはこの十秒後。 「おとおおおさあああん、睦月いいいい!」  嵐のような勢いでおやすみなさいを言う伊都に、二人して大きく飛び上がった。

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