92 / 113

家族について編 4 溜め息

「ふぁ……」  大きなあくびが一つ、朝の通勤途中、赤信号待ちの間に我慢しきれずしてしまった。前の運転手さんに、とか、歩道を歩く学生さんに、とか、見られちゃってるかもと両手で口元を覆った。  ちゃんと寝てるんだけどなぁ。寝ているんだけど、頭がちょっと限界ですよーって言ってるのかな。仕事はいつもの業務に加えて、課長に習いながら新しい仕事も加わって、家のこともあるし。でも、営業にいた頃のほうがもっと忙しかった。今はほとんどがデスクワークのはずなのに、それでもちっとも疲れが取れなくて。年もあるのかなぁ、なんて。  でも、それも今日で終わりだから。  少し慣れてきたし、あともう一日乗り越えたら、これで普段どおりの業務に戻れるんだし。 「……よしっ」  青信号に変わったと同時、小さな声で自分に檄を飛ばして、車を走らせた。  少し、疲れが溜まってて、注意できてなかったんだ。  まぁ、大丈夫ってさ、どこかのんびりしてたんだ。スマホをデスクの鞄の中に入れっぱなしだったことにも気が付いてなかった。 「佐伯さん、二番に外線です」  全然ダメだった。  伊都の体調をちゃんと見れてなかったんだ。 「た、ただいまっ!」  靴を揃えることもなく、放るように脱いで、伊都の部屋を開けると真っ暗だった。誰もいない。リビングなのかな。 「ただい、……」 「あ、おかえり、千佳志さん」 「あ、お父さん、おかえりー」  おでこに冷却シートを広げた伊都が、まるで……王様みたいに。 「ねぇ、お父さん、フルーツポンチにアイス入れてもらったー」  ソファのところでくつろいでいた。  学童から電話がかかってきていた。でも気が付かなくて、睦月の連絡先も家族、同居人として学童には伝えてあったから、そっちに連絡をしてくれたらしい。体調が悪そうだから迎えを早めに来てくださいって、睦月のスマホに連絡があった。その後、学童が、俺の会社のほうへ外線から連絡をしてくれた。ご家族の方から連絡がいくかもしれないけれど、様子を先に伝えておいたほうがいいかもしれないと、学童の先生が気を利かせてくれた。  熱がある。まだ高熱ではないけれど、夕方あがるかもしれない。それから、他の症状は特に見受けられない。  病院で診てもらう時に説明をしないといけないだろうからって。それから、ご家族がお迎えに来てくれたから、今日、仕事後、学童には寄らなくて大丈夫ですって 「さっき、熱測ったよ。まだ微熱だけど、迎えに行った頃に比べると大分熱下がったし、寝てるの飽きたっていうから」 「ぁ……うん」  伊都は苦しそうでもなく、高熱に辛そうにするのでもなく、ゆっくりとソファに、睦月がたくさん並べてくれたんだろうクッションに背中を預けて、大好きなアニメを見て笑ってる。 「伊都、大丈夫?」 「うん。大丈夫だよ」 「熱は?」 「んー」  額に触れると、ほんの少し、普段よりも熱い。けれど、飛び上がるような高熱じゃない。 「もー、へーき、えへへ」  伊都はおでこに当てた俺の手を視線で追いかけて、自分の頭上をチラリと見てから、まだ赤い頬をぷくっと膨らませて笑った。その頬に触れると、やっぱり少しだけ熱が篭もっていた。 「何か飲む? 林檎ジュースは?」 「睦月がくれたよー、ほら」  ソファの近くに睦月が寄せてくれたんだろうローテーブルには飲みかけの林檎ジュースに、林檎と桃の缶詰、それから、溶けかけのアイスクリームがその上に乗っかっている。 「伊都が風邪を引いた時は、桃の缶詰を用意してくれるんだって話してくれたからさ」 「あ、うん」 「うちは林檎をスライスしたのとアイスを一緒にして食べるんだ」  風邪の時の特別メニューなんだって。 「ねぇねぇ、お父さん、これ、すっごい美味しいよっ」  熱が残るほっぺたをまた丸くさせながら、パクリと食べたアイスと林檎と桃に、にこっと顔を綻ばせる。 「ゼリーも買ってある。それからスポーツドリンクもあるし」 「あ、ありがと」 「伊都がうどんだから、俺たちもうどんでいい?」 「あ、うん」 「待ってて、千佳志さんも疲れたでしょ?」  ほぅ、って胸の内だけで安堵の溜め息が零れた。  電話をもらった時は、自分の情けなさに溜め息すら零れなかった。昨日の夜、日中の暑さがぐんと和らいで、少し肌寒いでしょうって、天気予報が出てたのに、あまりちゃんと聞いてなかったんだ。寝冷えしたのかもしれない。もしくは、その冷えた夜の翌朝、俺も肌寒いなぁって思うくらいだったのに、夏用の薄手生地のパジャマを着ていた伊都の小さなくしゃみ一つを聞き流してしまったせいかもしれない。  気をつけてあげられなかったって、疲れてるからと、どこか散漫になっていた自分が情けなくて。 「お父さんも一緒にうどん食べようよ」 「うん。食べよう」  悲しい気持ちでいっぱいだった。 「ちょっと、睦月の手伝い行ってくるね」 「はーい。あ! お父さん! スーツのままだよ」 「うん、わかってるよ」  頭を撫でてあげると、伊都が嬉しそうに笑ってくれた。 「あの、睦月、ごめんね」 「……」 「その、迎えに」 「ごめんじゃないでしょ」  ちらりとこっちを見て、目を細め、煮立ったつゆの中へとうどんを入れた。 「謝ることじゃないよ」 「でもっ」  でも、仕事は大丈夫だったの? 学童のほうに「家族」として睦月のことを伝えるために、連絡先を教えないといけなかったけれど、でも、睦月のほうに連絡がいくことなんてないと思ってた。スマホは仕事中でもポケットに入れて、いつでも電話に気がつけるように日頃していたから。でも、今回、それができてなくて、睦月へ連絡が行ってしまった。  学童からお迎えの連絡が来たので、なんて、独身の睦月には――。 「大丈夫だから」  大きな手が俺の頬を撫でた。 「ほら、千佳志さんもスーツ着替えてきて、仕事、大変だったでしょ? お疲れ様」  そして、早く皆で食べようって、できたてのうどんを、どんぶりによそってくれた。

ともだちにシェアしよう!