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家族について編 5 シングルファーザー

 翌日、伊都はすっかり元気になっていた。もう熱もないからって、玄関でランドセルの中身をガシャンガシャンと騒がしくさせながら、元気な声で「いってきまーす」って飛び出していった。  睦月は今日、昨日、早退したこともあるからと、少し早めにスポーツジムへと向かった。 「あの、課長、昨日はすみません。あの」 「あら、佐伯君、おはよう。息子さんはもう大丈夫?」 「あ、はい……ありがとうございます。それで……」  少しお話が、と呟いたら、課長は挨拶の時の笑顔のまま、コクンと頷いて、ここではなく、ここ数日、特別業務のために篭もっていた応接室へと案内してくれた。 「――本当にすみません」  頑張ってはみたけれど、課長っていう仕事は俺にはこなせないと思う。そう正直に伝えた。まだ内々の話だったけれど、ゆくゆくは社命で課長へってことだからと言われてる。それを断れば、社命を断ることと同じになるから、この後は。 「推薦していただいてありがたいことなのですが」  この後は経理課にもいられないかもしれないけれど。  でも、やっぱり家族は大事だから。 「課長昇進のこと……」  昨日、帰った時の伊都の真っ赤な頬を見たら、切なくなった。睦月がいてくれたからすごく助かったけれど、でも、一人でこなしていたら、あんなふうに伊都は笑えてない。もっと悪化してただろう。電話にも気が付かなかった。仕事に疲れてて、体調の変化にだって気が付いてなかった。  そんなの、ダメだと思うから。 「んー……」  俯いていると、課長が小さく唸って、小さく、溜め息を零した。 「佐伯君がシングルファーザーなのは知ってます」 「はい」 「それでも、ゆくゆくは課長にって思った一番の理由はね」 「……はい」 「貴方なら、働いてるママの気持ちを一番理解できる男性だからって思ったの」  溜め息の理由を「まいったな」「それじゃ困るんだ」、そんなネガティブな理由だと思っていた俺は、課長の柔らかい声色に顔を上げた。 「子どもが熱が出ましたー! それは大変、じゃあ、とりあえず、この業務は他の人たちと片付けるから、もう帰っていいよー! 今日は保護者会なんです。そっか、じゃあ、また明日宜しく。役員、ならないといいねー!」  顔を上げたら、課長が笑っていた。 「そう言ってくれる男性上司がいたら、すごく助かるって思ったの」 「……」 「ぶっちゃければね」  眉上げて、首を傾げて、くだけた笑い方だった。 「経理も人事も女性が多いでしょ?」  たしかに、ほとんど女性だ。代わりに外回りにと走り回る女性従業員はいない。現場も同じように男性のほうが多い。 「私は経理も人事もそのうち多能工になると思ってます」 「……」 「経費削減も兼ねてね? そしたら、一人の従業員の欠勤が響くこともある。それを踏まえてサポートし合える職場にしたかった。それには男性で家事も育児も理解してくれている、つよーい味方が欲しかった」  それが。 「佐伯君は適任だって思ったの。もちろん、能力も充分あると思います」  営業でバリバリ成績を上げてた頃を知ってるものって。その頃は経理に見積もりだなんだとよくお世話になっていたから。 「それに、女性従業員に慕われてる」 「いえ……そんな」 「今すぐじゃなくていいのよ。息子さんが大きくなってからの話」  それに、まだ私も定年前だものって笑っていた。 「その時までに私も協力して、皆にも協力してもらって、一人じゃなく皆で仕事をできるチームにしたいと思います」 「……チーム」 「そうよ。だから、息子さんのことで相談でもなんでもしてみて? あ! それと、ごめんなさいっ」 「え、課長、あのっ」 「忘れてたわ」  営業の時もそうだったっけね、と言われてしまった。 「貴方って、真面目というか、一生懸命すぎて、全部一人で頑張らなくちゃって思うとこがあったこと」 「……」 「営業の時も、バリバリ数字出してたけど、少し心配だったもの。根詰めてそうで」  でも、最近の俺は朗らかな表情でいることが多かったから、つい忘れてしまったんだと、課長に謝られてしまった。 「皆で貴方を支えます」 「……」 「だから、貴方も皆と支え合える、職場を作れる課長になってみて欲しいの」  ふと、思い出した。 「ね? 佐伯君」  麻美を失くしてしばらくしてから、経理に来ないかって声をかけてくれたのは、課長だった。  仕事に復帰してすぐはまだ小さな伊都のこともあって、営業を率先して外回りしなくて大丈夫だったけれど、でもそれは限定的なことで、不安だった。この仕事をしながらはどうしたって子育ては無理だ。でも、転職をするにもシングルファーザーになりたてで、子育てに不安すらある、その中での職探しが簡単じゃないことは容易に予想できる。色々な条件、保育園のお迎えのこと、残業は難しいこと、土日は休めないかもしれないこと、そんな条件がいくつもあるんだ。しかも子どもはまだずいぶん小さい。そうなると仕事を見つけるのも難しい。  どうしよう。  そう思いながら、休憩室で悩んでいたら課長が声をかけてくれた。  経理に来ないかって。  でも俺は即答なんてできなくて、全く就いたことのない職業に戸惑っていた。  ――大丈夫よ! 子育ての先輩ならうちの課にたっくさんいるから!  うちなら定時オッケー、土日も休み、お迎えがあるママさんはたくさん。  ――ね? 佐伯君!  そう言って、背中を軽く押してくれたのは、この課長だった。 「ただいま、千佳志さん」 「……睦月」 「伊都は?」  今日は、いつもよりも遅かった睦月が帰ってくると着替えを詰め込んだバックをソファに下ろした。ずしりと重たげな音を立てて、睦月の大きなリュックがソファの、昨日、伊都のためにと並べてくれたクッションに沈み込む。 「もう寝たよ。昨日の今日だから、早く寝なさいって」 「そうだね。そのほうがいいよ」 「やだって、睦月が帰ってくるまで起きてたいって言ってたけどね」  静かに笑った睦月のTシャツの裾をちょんと握った。 「千佳志さん?」 「あの、ご飯、食べながらでいいから、話が、あるんだ」  君には負担になってしまう話。俺にも負担になってしまうかもしれない話。伊都にも、きっと、それでも――。

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