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家族について編 6 君のなれるもの。俺がなれるもの。

 負担をかけてしまうけれど、それでも、課長と話をして、やってみたいって思った。  責任も多くなる分、疲れてしまうかもしれない。今回みたいなことはないようにしたいけれど、それでも、伊都と睦月に迷惑をかけてしまうことはあるだろう。  でも、仕事は慣れたら大丈夫だろうし。最初は戸惑うけれど――でも、俺も。 「だから、その……やっぱり課長からもらった話、受けさせてもらおうと」  断らないことにした。いつか、課長にっていう話。 「……伊都のことが、あったばかりなのに」  嫌な顔をされてしまうかもしれない。嫌じゃなくても表情がほんの少しでも曇ってしまうかもしれない。睦月に。そう思うと少しだけ視線が俯いてしまう。その視界の端で、ぱくりと睦月が野菜炒めを口に運んだのが見えた。 「ね、千佳志さん」 「うん……」 「あのさ」  睦月がいなかったら断るしかなかったと思う。課長がああは言ってくれていたけれど、それでも、本当にシングルファーザーのままでその職務をこなせるとは思えない。伊都が自分でなんでもできるようになる中学生とか、そのくらいになるまでは、無理なのではなく、実際問題、不可能だ。 「千佳志さんは、いつもどこかで自分だけだったら……って、思ってるでしょ?」 「……ぇ?」 「自分ひとりだったら、無理だった、とかさ」  意外な問いかけに思わず顔を上げてしまった。 「……あの、睦月……」  君は真っ直ぐ俺を見ていてくれた。 「自分だけだったらきっとこなせない。俺がいなかったらきっとすごく大変だっただろうって」 「……」  真っ直ぐ俺を見ててくれた。 「ね、千佳志さん、俺はいなくならないよ」 「……」 「絶対に」  俯いてしまうのは、たぶん、俺のクセ。溜め息を足元に落っことしてしまうのは、俺の知らず知らずにつけてしまった、悪いクセ。 「伊都が風邪を引いたのは千佳志さんのせいじゃない。俺のせいでもあり、伊都自身のせいでもある」 「……」 「全部、自分でって背負おうとするの」  だって、全部自分でやらないといけなかったから。 「千佳志さんの悪いクセだ」 「……」 「前にも言ったけど、伊都の父親は千佳志さんしかいない。俺は父親になれない。そして、伊都の母親にもなれない。お母さんは、麻美さんだけだ」 「……」 「けど、俺は伊都のヒーローにはなれる」  すぐに俯いてしまうのは、いつの間にか身に付いてしまった俺の悪いクセ。  だって、怖いよ。あぁ、この道のりをこれから一人で歩いていかないといけないのか。そう先のことを考えると溜め息がとてもとっても重たくなって、一歩一歩前に進めないといけない足が動かなくなってしまいそうだから。足元を、ほんのちょっとだけ手前の辺りだけを見て進まないと、涙が零れてしまいそうだったから。 「貴方のヒーローにもなれるよ」  でも、どうしよう。困ったね。 「ヒーローは完全無欠なんだ」  今、泣いてしまったけれど。 「だから、どこにもいかない」 「……」 「っていうか、どこにも行くつもりないから」  でも、この涙はあったかい。 「だから、貴方は俺がいなかったら、とか、一人だったら、とか考えなくていいんだ」  君が前にいてくれる。 「俺は、貴方のヒーローなんだから」  前を見つめて、コクンと頷くと、目の前の君が笑った。その笑顔を見た途端にもっと視界は揺らいでぼやけて見えなくなってしまったけれど、やっぱり野菜炒め美味いなぁって呟いてくれる君の声が、とてもあったかいから、俺は「ありがと」って頷いたんだ。  ポトリと手元に涙を落っことしながら。 「うわ……」  睦月にこんな顔見せちゃってたのか。これ、ちょっとひどくない? 泣き顔っていうかさ。 「……」  目は真っ赤、まるでウサギ。目元もそのせいで腫れぼったくて、眠たいそう。俺と伊都は食事の前にお風呂をもう済ませちゃってるけど、でも、もう一回入ってこようかな。お風呂に入ったら、わからないけどリセットされたりしないかな。これは、ちょっとね。さすがにどうにかしないと、濡れタオルで冷やしたほうがいいかも。この変な顔のままじゃ、睦月の隣で眠れないよ。  睦月は笑わないだろうけど。  でも、俺がこの不細工な腫れぼったい顔を睦月に見せたくない。  だって、好きだから。もっと、たくさん、好かれたいから。 「お風呂、スイッチ止めときました」 「わっ!」  びっくりして、思わず声が出てしまった。スマホのカメラ視点を反転させて自分の顔を見ていたところだった。良かった、背中を向けてて。 「千佳志さん?」 「あ、あの、スイッチ止めて大丈夫。でも、ちょっともう一回お風呂入ってくる」 「……千佳志さん?」 「あのっ、先に寝てていいよっ、俺」 「千佳志?」  睦月の横をすり抜けて、そのままお風呂場へ逃げ込もうと思ったんだ。お風呂でリセットできなくても、冷たいタオルで冷やすとかさ。時間が経てば、少しはこの不細工な瞼も治るかもしれないし、今日は昨日の分も仕事がたくさんで疲れてるだろう睦月は先に寝てしまうかもしれない。だから、そう思ったのに。 「千佳志」 「っ、あの、見ないで」  手首を掴まれてしまった。 「あのっ」  できるだけ俯いた。顔を見せたくないんだ。今ね。その。 「見、ないで……今、すごい、不細工だから」 「……」 「や、睦月」  見ちゃやだって言ってるのに、睦月は大きな手で俺の肩を掴むと、そのまま広い逞しい背中を丸めて、俯いた俺を覗き込む。見て欲しくないのに、意地悪をして、じっと見つめて。 「やばいよ……千佳志」 「っ、だかっ」  だから、見ちゃやだって言ったでしょう? そう言いたかった言葉は睦月に食べられた。 「ンっ……ン」  俺の作る野菜炒めをたくさん食べてくれる大きな口で、俺の苦情を全部食べて。 「んっんん」  全部飲んで。 「ん、ぁっ」 「なんて、可愛い顔、してるんですか」  そう小さく呟くと、また吐息ごと、舌を絡める濃厚な口付けで、俺の、「見ちゃやだ」って羞恥心を食べてしまった。

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