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家族になる日 編 4 パカーンとパカパカ
少し……俺ってばはしゃぎすぎたかなって……昨夜、なんだかとてもひどく……その……なんというか。
―― 千佳志、やらしくて可愛い。
でも、とても嬉しかったんだ。年甲斐もなくはしゃいでしまうくらい、たかがケチャップって思うけれど。俺にとってはそのたかが、が、されど、で。すごくすごく心が軽くなる出来事で。彼を好きになってよかったと改めて思うことで。彼に好かれてよかったと心から思うことだったんだ。
その彼とこれから一緒に――。
「おとおおお、あ、ここにいた。お父さん?」
「! う、うんっ!」
伊都が洗面所にひょこっと現れ、鏡の中に並んで映り込んだ。一年生の頃は黄色だった帽子が今はキャップに変わり、すっかり幼児の雰囲気は抜け、男の子って感じだ。
「もう時間だよ?」
「は、はいっ」
ほら、仕事に行かなくちゃって、洗面所でもう一度、顔を洗い直した。年下の彼に可愛いと言われて、多少胸を躍らせてしまう、ちょっと恋にボケてる自分をシャキッとさせるために。
「お父さん、今日もお迎え少し遅い?」
「ううん。大丈夫、今日はいつも通りだよ」
「はーい」
あと、十日もしたら、睦月がうちにやってくる。彼と一緒に暮らすんだ。
「あ、伊都、給食袋持った?」
「持ったー」
今までは夜、うちに彼がやってきて、三人で食事をしてから、睦月は自宅のアパートへと帰っていく。
「今日の給食リクエストメニューなんだぁ」
「へえ、よかったね」
「唐揚げ!」
別々の夜を過ごすのもあと十日。
不安なことだってそりゃあるよ。今までは別々の生活をしていたのだから。数時間を共にするのと夜をずっと共にするのでは色々違ってくる。その違いが苛立ちに変わることだってあるだろうし、戸惑うことだってあるだろう。それでなくても俺たちは――。
「ねぇ、お父さん、箱、今度学校で使うんだって」
「え! なにそれ、箱?」
「うん。そう、箱。算数で使うの、なんでもいいんだけど、蓋がついてるやつ」
また、それは難儀な。
「蓋がついてたらなんでもいいの?」
「うーん、えっとね。蓋がこうパカーン、じゃなくて、こう、パカパカするの」
「……」
ちんぷんかんぷんなんだけど。頑張ってジェスチャーをしてくれてるのはありがたい。けれど、そのパカーンとパカパカの違いが、あまり、わからないんだけど。算数で使うってことは、なんだろ? 何に使うんだろ。
「あ! 睦月だ! おはよう! 睦月」
「おー、おはよう、伊都」
クロスバイクに跨った睦月を見つけ、伊都が両手を振りながら、またランドセルを楽器みたいに鳴らしながら、その側へと駆け寄っていく。
「お父さん、箱、お願いしまーす!」
朝から元気に、ぴょんと跳ねた伊都の言葉に睦月がふわりと笑った。まだ伊都には大騒ぎしそうだから言ってないけれど、あと、十日。あと十日で。
睦月に会えて嬉しそうに飛んで跳ねる伊都に、とても嬉しそうに睦月が笑った。
「箱……ですか?」
「うん、そう、箱、なんだって」
「パカーン、ってしてて、パカパカじゃなくて……」
「うん」
藤崎さんが眉間にものすごく皺を寄せながら、うーん、と首を捻じ曲げた。俺のジェスチャー合ってない、かな。伊都が今朝してくれたのをそのまましているつもりなのだけれど。どっちも似てたんだ。片手で底の部分を持って、もう片手は手首を使って上下に、動かしてた……と思うのだけれど。
「なんでしょうねぇ、その違い」
できるだけ、そういうのちゃんとしてあげたい。
伊都はちっとも気にしないだろう。箱の種類違ってたーって笑うだけだと思う。けれど、これは俺の思い、俺の自己満足なんだ。片親、だから、かな。お母さんがいたら、と、ほんの少しでも思われないように、伊都がほんの欠片でもそんなことを考えないように、些細なことだけれど、ちゃんとしてあげたいと。
「えー、なんだろう」
同じ年頃の娘さんがいる藤崎さんならわかるかなと思ったんだ。でも学校が違うし、そんな算数の授業で使う道具がわかるなんてこと、流石にないよね。
「ちょっと、うちに帰って娘に聞いてみますね! 算数で箱使った? って。使ったかなぁ。あの子、たまにそういうのしれーっと知らんぷりして持ち物シカトしたりするからなぁ」
「そうなの?」
「そうなんです。めんどくさいのとか大きいものとか、内緒にして持って行かずにいたりするんですよー。ごくたまぁになんですけど、ほら、学校で使うものって全部が全部お便りに書いてあるわけじゃなかったりするから。担任の先生ごとに違うでしょ? 教え方なんて」
なんでしょうねぇとまた藤崎さんが首を捻ったところで、外線が鳴って話はそこで終いになった。
「多分、これですよ」
パカーン、と、パカパカ。
「今日職場でちょうどいい箱があったんで持ってきました」
伊都の謎々を解いてくれたのは睦月だった。
「あ! 箱!」
「算数で使うんだろ? どうぞ」
「わーい、ありがとう! なんかこの箱、かっこいい!」
蓋、パカーンっていうのは、なるほど、蓋がくっついてるタイプ。パカパカは分離していて、ほんのひと回り大きい箱を上から被せるタイプの箱、らしい。
「よくわかったね」
「あぁ、多分水泳で教えてるからかな。擬音で教えたりすることもあるから、そこでなんとなく」
不安なことだってあるんだ。睦月と暮らすの。
「ありがとう、睦月! お父さん、これ潰れないように袋で持ってく」
「うん。そうだね」
不安もある。けれど。
「ただのスポーツグッズが入ってたやつなんですけど、でもちょうどいいのがあってよかった」
「うん。ありがとう」
けれど、君と一緒に暮らしたいと、すごく思ってる。
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