18 / 113

第18話 恋しくて

 合宿最終日のキャンプファイヤーはスポーツクラブ所有のバスを使って、場所を変えて行われた。片道三十分。午前中にスイミングレッスンもあったし、三日分の疲れもあるだろうから、伊都はきっと寝るだろうと思ったのに、新しくできた友達と目を輝かせて話しに夢中になっていた。  途中、興奮して声が大きくなる度に向こうのお母さんとトーンを落ち着かせるために声をかけていたから、あっという間に現地に到着した。  整備されたキャンプ場は涼しくて、水の流れる音が聞こえてくる。階段を下りるとすぐそこが川らしい。  ちょっと怖かった。身動きが取れなくなるほどの恐怖じゃないけれど、でも耳はずっと水音を気にしてた。川の音は一定のまま、ただ流れていくだけ。それなのに、耳はいきなりその音が近くまで来るんじゃないかとじっとそっちへ意識を向けていた。  大丈夫かな。ちゃんとキャンプファイヤーを楽しめるかな。伊都に心配をかけないかな。  そう思って、指先に緊張が滲んだ時だった。  ――大丈夫です?  また、「あれ」がすごすごと逃げ帰って、代わりに、ドキドキがやってきたんだ。 「佐伯さんも子どもの頃、こういうやりました?」  宮野さんにまた守ってもらった。彼の笑顔と温かい心が「あれ」はとても苦手らしい。いつまでも俺に覆い被さって、指先からいくらでもどんどん体温を奪っていく「恐れ」。ずっと、すぐ隣にいて、いつだって手を伸ばして俺を支配できたけれど、彼が俺の隣にいてくれると、あいつはこの胸のうちにいられなくなる。 「やりましたよ」 「佐伯さんもあんなふうにはしゃいだりしてたのかなぁ。想像したら、可愛いですね」  身体の内側いっぱいに君がいるから。君を想う「恋」で俺の中が溢れ返りそうなくらい詰まるから。 「あの、いいんですか? 宮野さん、人気者なのに、ここでこんなふうにいて」  顔がカッコよくて、逞しくて、優しくて気遣いのできるコーチなんて、ママさん方に大人気だ。このキャンプ中もたくさん話しかけられていた。 「俺が独り占めしちゃって……なんて」  そんな彼のことを独占できていることに、内心とても喜んでしまっている。本当はおとなげなくおおはしゃぎしている。 「違いますよ」 「え?」 「俺が、佐伯さんを独り占めしてるんです」  パチパチと火の粉が夜空に舞い上がっていく音。子ども達の楽しそうな笑い声。伊都はバスの中で仲良く話していた友だちと追いかけっこに夢中で、さっきからずっと笑いっぱなしだ。ここにいるみんなの穏やかで楽しげなおしゃべりの声。  そして、一際、隣で、大きく、鮮明に聞こえる君の声。 「俺を独り占めって……別に、そんなのいつだって」 「さっき、バスの中でママさんと話して笑ってた」 「あ、あれは」 「わかってます。わかってるけど」  火の色に照らされる君の横顔はとてもカッコよくて、目を逸らすのすら難しい。ずっと、隣でこんなふうに見つめていられる人はなんて幸せなんだろうって、ふと、思って、それは自分なんだと勝手に噛み締めてる。 「ヤキモチ、やいてました」  キス、したいと思った。して欲しいなと、思った。 「あと、今、佐伯さんとふたりっきりになりたいなぁって、思ってます」  君の声ばかりが耳をくすぐる。気がついたら、川の、水の音は聞こえてこなかった。楽しそうな声と音、それと好きな人の声ばかり聞こえてきて、やっぱり「あれ」は胸の内のどこにも見当たらなくなっていた。  キャンプファイヤーも無事終了。最終日は午前中にスイミングのレッスンを受けて、そのあと、解散となった。  宮野さんは他のコーチスタッフと一緒にミーティング。俺たちは新しくできた友だちとその親御さんと挨拶を交わして、車で帰宅。  丸三日ぶりの我が家は日中に南向きの窓から差し込んだ日差しの熱を夜になっても逃せられなかったのか、入った瞬間に声を上げそうになるほど暑かった。そこから溜め込んだ数日分の洗濯物をして、夕飯の買い物へと出かけた。 「なるほど、たしかにめちゃくちゃ美味いです」 「そこまでじゃないよ。あ、伊都、ピーマン食べて」  夕食はリベンジの野菜炒め。失敗してしまったって、あの日言ったのが負け惜しみじゃないってアピールしたくて、再挑戦した。  宮野さんにいつもの野菜炒めを食べてもらいたかったんだ。  そんな自分がくすぐったい。まるで好きな男の子に料理が上手いんだとアピールしているみたいで。 「合宿楽しかったねぇ。俺ね、バタ足でいっぱい泳げるようになったよ! ねっ! コーチ!」 「すごかった。あんなに上手に泳げるようになるなんて」 「へへへ」 「あと、友だちも増えたね。伊都は」 「うん!」  伊都がとても嬉しそうだった。可能性が増えるってすごく素敵なんだと、伊都に教えてもらった気がした。頑張った分だけ未来が、今、その瞬間が輝くんだよって、伊都に俺が教えてもらってる。  たまらなく愛しいと思った。 「……」  この空間にふわりと微笑む君もいてくれることを。昇り立ての太陽みたいにキラキラ光りを纏う伊都の笑顔と、ゆったりと優しく包み込んでくれる宮野さんの笑顔。ここは宝物みたいな空間だと思った。 「明日からはご実家ですっけ?」 「はい。車で一時間ちょっとかな。山を越えていくので時間かかるけど、隣の県なんです」 「そっか」  伊都を寝かしつけてくれた。自宅の布団はやっぱり落ち着くんだろうか。この合宿で楽しかったことを言い並べて終えることなく熟睡だったらしい。泳げたこと、友だちができたこと、自分でカレー用のジャガイモの皮むきができたこと。伊都が教えてくれた、この三日間でできたこと。  ――すごく好きな人とキスできました。  なんて、ついでに宮野さんがこの合宿でできたことを教えられて、頬が熱くてたまらなくなった。 「ちょっと、寂しかったりして……なんて」  愛しくて、蕩けそうだった。 「俺も、です」 「え?」 「宮野さんともっと一緒に、いたい」 「……」  俺はこの三日間で水が怖くなくなりました。  実家に行ったら、きっと俺の親が伊都をプールへ連れて行ってくれる。毎年そうだから。俺が行けない代わりに伊都を遊ばせてくれる。でも、高齢の親は伊都に泳ぎを教える体力はなくて、義理の兄も入るけれど、仕事忙しいし、だから、夏の帰省だけじゃ泳げるようにはならなかったんだ。今年の夏、どこかでプールに行きたいなって、思うんです。  わかってる? 君のおかげなんだ。君を好きになった、恋をした、ただそれだけで、俺にできることはたくさん増える。君は俺の毎日を変えてしまえるんだ。 「あーもう、本当に貴方は」 「? あの、宮野さん?」 「こっち」  手を引かれて連れて行かれた場所は駐車場の車にとっては少し厄介で好まれない、成長しすぎの垣根。夏の日差しにぐんぐんと葉を伸ばして、車にとっては邪魔で仕方がないけれど、内緒のことをするにはちょっと便利。そんな木の陰へと連れて行かれて、抱きしめられて、そして――。 「すげぇ、破壊力」 「え?」  ボソッと呟いた独り言がいつもの爽やかな宮野コーチらしくない、男っぽさが混じってて。同じ男なのに、ゾクゾクしてしまった。腹の底がジト……って火照るくらい。 「少し、深くしてもいいですか?」 「え? ンっ……」  唇が重なったと思ったら、そのまま唇を開かされて、温かく柔らかく濡れた、彼の舌が入ってくる。 「ン、んんっ……ンふっ……ン、く……」  おずおずと自分からもその柔らかい舌を舐めてみたら、もっと深く弄られた。唇も口も濡れていく。 「んんんっ」 「佐伯、さん……」  激しくて濃いキスは食べて飲まれてるみたいなのに、食べられて、飲まれてるのは俺のはずなのに、とても美味しい。 「あ、宮野、さ……っ」  柔らかい君の髪を指で掻き乱すだけでも、とても気持ち良くて、もっと触っていたくて、自然と彼の頭を抱きしめられて引き寄せていた。  

ともだちにシェアしよう!