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第19話 姉のニヤリ顔

「おばあちゃん! 見ててね! こうやって、こうすんだぁ」  伊都がスイミングの準備体操から、一通り、レッスンの流れを畳みの上で再現してみせている。バタ足の仕方のコツとか、宮野さんに教わったように、畳に足の甲を打ち付けながら、バタバタ騒がしい音を立ててる。  母も父もそんな伊都の横に座って、手を叩いて大喜びだ。で、そんなふうに反応してもらえるから、余計にまた伊都は張り切ってるし。襖とか障子を壊さないといいんだけど。去年は、保育園の夕涼みでやった踊りを再現してみせて、見事に障子にグーパンチ食らわせてたっけ。 「伊都、また背伸びたねぇ」 「ねぇちゃん」 「男の子だねぇ。うちの娘っ子が小一の時より大きい気がする」 「そう?」  三つ上の姉のところは二人女の子がいる。小学五年生と三年生。実家から歩いて三十分くらいのところに家を建てたから、帰省っていうよりもいつも遊びに来る実家に、夏恒例のイベント、お泊り会みたいな感じ。姪っ子と伊都の夏の楽しみのひとつになっていて、俺じゃ、連れて行けない川やプールに姉夫婦が連れて行ってくれたりもする。 「お兄さんは?」 「仕事があるから明日顔出すってさ」 「そっか」 「伊都、しっかりしたね」 「……うん。すごいよ。スイミングも頑張ってるし」  すごくしっかりしてるよ。本当に、俺が子どもの頃なんて、姉ちゃんの後くっついてよく泣いてた。そんな俺に比べたら伊都はしっかりしてる。 「へぇ、それでバタ足披露してんのね。あんたは? 平気だったの? スイミングとか」  伊都の隣に姪っ子二人も並んで、バタバタバタバタ、普段は両親だけが静かにのんびり過ごしている居間にせわしない音がして、畳もびっくりしてそうなくらい。 「あー……まぁ、うん」  ふんわり頷いた。両親も姉も、もちろん五年前のことは知っているし、それが原因で水が怖くなったことも知っている。ふたりで暮らすのが無理そうなら、実家に戻ってきてもいいって言ってくれていた。でも仕事は事務職へ考慮してもらえたばかりだったから、辞められなくて、頑張れるだけ頑張って無理そうならって、言ったんだ。 「そっか、水平気になってきたんだ」 「……少しずつね」  そう少しずつ、少しずつ、怖さが薄れてきてた。でも、まだ少し怖かったよ。宮野さんが手を繋いでくれるまでは。 「何よ」 「へ?」 「何、その笑顔」 「……」 「さては……」  姉がニヤリと笑った。 「なっ! ないよ! ないない!」  あるけどさ。 「えぇ? でも、その顔、あるでしょ、なんか」 「なっ! ないってば!」  あるけど。 「いいじゃん。別に家族なんだし。もう恋愛したっていいでしょ」 「だから! ないってば!」 「再婚とかも、伊都なら大丈夫そうじゃない?」 「だっ! だから、ないってば」 「はいはい」  再婚って、別にそんな……。 「おーい、伊都、おばちゃんにも見せてよ。バタ足」  もう、なんか今、思い浮かんじゃったじゃないか。 「いいよ~。あのね、宮野コーチに教わったんだ。見ててよ?」  伊都が彼の名前を呼んで、胸のうちが小さく跳ねた。宮野さんの笑った顔、彼のことを思い出す時は大概、その笑顔を思う浮かべてたけど、今は、笑顔とあともうひとつ。  ――少し、深くしてもいいですか?  そう囁いた彼の顔も思い出す。  艶めいていて、男の俺でもドキドキさせられてしまうような色っぽい顔。喉奥が熱くなる、ゾクッとする表情。同じ男なのに、キスの時だって。 「……?」  同じ男なのに。男の俺でも――ってさ。  ――恋愛したっていいでしょ。  恋愛ってさ、好き同士でキスをして、キスしたら、今度は。 「おおお! 伊都! すっごいじゃん!」 「上手でしょ? 俺、ちっとも泳げなかったんだぜ? でも、もう赤帽子じゃなくなるかも!」  今度は、俺、宮野さんと、そういうこととか、ある、のかな。  その、キスの、次の段階っていうか、先に進むっていうか、つまりはセッ――。 「へへ。宮野コーチに教わってるし!」  そこまで考えて、ハッとした瞬間、大きな拍手が思考を遮った。バタ足練習を終えた子ども三人が並んで立ち上がったのを手を叩き褒める大人三人。  両親と姉に拍手されて、姪っ子二人と一緒に並んだ伊都は胸を張ってはりきっていた。次、コーチにスイミング教わる時はもっとバタ足が上手になってるし! って、元気に宣言をしていた。  ――そっちは天気どうですか? こっちは曇りなのにムシムシしてます。  夜、荷物の中から着替えを取りに、上の、自分が使っていた子ども部屋へ行くと、スマホに宮野さんからメッセージが届いていた。普段からあまり肌身離さず持っているほうじゃないし、重要な連絡、たとえば家族からの、なんて、今実家にいる俺には関係ないから鞄の中に放り込んだままだった。  こういうのまめにするほうなのかな。顔もカッコいいし、水泳やってるからイイ体してるし。って! 別に! 体の観察しまくってるとかじゃないから! 別に、水泳のコーチしてるんだから、俺みたいに筋肉ほぼないですっていう体とは全然違うだろっていうだけのことで。 「……」  モテるだろうな。彼女とか、さ。  ――帰って来た日、うちで飯とか、どうですか?  俺もだけど、彼も、同性とこんなふうに付き合うの初めてっぽかった。だから、つまり、そういう行為もさ。 「……」  できる、のかな。今までの、そういう相手の人と俺とじゃ、色々違うだろ。キスまではほら、別に、同性でしたって、異性としたって大差ないと思うけど。でも。 「おーい! お風呂どうぞー!」 「わっ、わかったー!」  下の階で、いつまでお降りてこない俺に痺れを切らした姉が急かしていた。その声に慌てて、鞄の中から衣類の替えとバスタオルを持って立ち上がる。  実家はうちと逆に、風呂、夕飯の順に進めるから、玄関を開けて降りていくと強くなる唐揚げの良い香りに胃の辺りが過剰に反応していた。

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