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第27話 大人の夏休み

 お盆休みが終わってしまった。今年のお盆は、ちょっとたくさんのことが変わりすぎて、身体も頭もびっくりしっぱなしっていうか、ずっと、心臓のとこが飛び跳ねているっていうか。  昨日が夏休み最終日だったけれど、家の掃除と買い物で終わった。翌日から仕事がある大人の夏休みラスト一日なんてそんなもの。 「伊都、お弁当の保冷剤!」 「はーい」 「あと、水筒の麦茶でしょ。それと」  うちの会社は事務所と現場で休みが違っているため、もしも営業にいたら、夏休みは現場と連動していた。でも、今は事務所だから夏休みが長くて、巷ではうらやましがられる十連休。睦月は合宿があったから、俺よりも少なくて――。 「……」  睦月、だって。胸のうちで呟いて、自分で自分をちょっとからかいたくなる。くすぐったい。彼のことを、宮野さんのことを、睦月って、名前で呼ぶことが。  彼を名前で呼ぶようになったのはつい一昨日のこと。つまり、一昨日、彼に、抱かれ。 「おとおおおおさあああああん」 「うわぁっ!」 「お父さん! 大変たいへん! 大変だよっ!」 「もぉ! 伊都! 大きな声をいきなり出さないように!」 「だって、蝉」 「……へ?」  何かと思うじゃないか。っていうか、蝉。 「……」 「お父さん、どうするの?」 「と、取るよ」 「取ってよ」 「取るってば」  だから、押さないで。苦手なんだ。蝉って、実家のほうで山のように遭遇してきたけど、毎回、ただそばを歩いただけで、「ビビビビッ!」ってものすごい大きな音を出して脅かしてくるから、苦手になってしまった。 「……か、帰って来てからね」  一回二回なんてもんじゃない、もう何十回って、いや、何百回ってそれをされて心臓止まるかもってくらいに驚かされ続けたらさ。  父親の威厳は二の次になるでしょ。 「あ! コーチだ! コーチー!」  伊都の声に身構えて、赤面しないように口元を引き締めた。  大人の夏休みは終わり。子どもの伊都はまだあと、一週間、夏休みが続くけれど、大人達には普段どおりの忙しない日常が待っている。 「お父さん、蝉苦手なんだよ。大人なのに」  つまり、毎朝の恒例になった、これも、再開する。でも、もう前とは違う。 「おはようございます。佐伯さん」 「お、はようござ、います。み、やのさん」  ほら、睦月が俺を見て我慢しきれず笑ってる。伊都は俺の赤面なんて気にすることなく、コーチである睦月に一所懸命、今朝、ベランダで発見した蝉を怖がるお父さんの話をしていた。 「夜、俺がやりますよ。蝉」 「え? あ、いえ……」  ってことは、今夜、うちでご飯食べてく、ってこと、だよね。そっか、夜、うちに、来てくれるのか。 「ダメですか?」 「あっ! いえ! 全然! すごく大歓迎です! 是非!」  慌てて首を横に振りながら、なんか、彼にものすごく来て欲しそうに大喜びで答えてしまった。  ほら、いきなりそんな熱烈アピールみたいなことをするから、睦月が目を丸くしてる。 「……っぷ、千佳志さん、可愛いすぎ」 「んなっ」 「ちかし、お父さんの名前だ」  伊都が、急に呼び方を変えたコーチにいち早く気がついた。俺はその背後で目を丸くするどころじゃない。蝉以上に驚かされて、心臓がびょんと大胆に跳ねた。そんなこと知るわけのない伊都がどうして名前で呼んでいるんだと、コーチの前でぴょんぴょん跳ねてる。 「んー? だって、伊都君も佐伯だから、同じでわかりにくいでしょ? だから、伊都君のお父さんのことは千佳志さん、伊都君は、伊都君。ね?」  なるほどって、伊都が納得をして、睦月がちらりと俺を見た。伊都に見えない場所ですごく照れて、ドキドキしながら赤面しているのをどうにかしたいと困っている俺を見て、ふわりと笑ってる。 「はい。千佳志さん、ゴミ、出しておきますんで。お仕事、頑張って」  君はホント意地悪だ。今日からまたいつもの日常が始まるのに、これじゃ、いつもみたいにできないよ。 「いってらっしゃい。千佳志さん」 「おとぉぉさぁぁぁん! 行ってらっしゃい!」  小さな声で「行ってきます」っていう俺を見て、伊都はちゃんと「大きな声で挨拶だよ」って注意をして、睦月はとても楽しそう、そして、すごく嬉しそうに笑っていた。  会社に着くと、長期休暇明けの恒例行事。お土産の配り合戦が始まっていた。デスクの上にはいくつものお菓子の山。今度はこのお菓子をくれた人全員を把握して、挨拶をするっていう行事がこのあとあるわけで、事務所独特なお盆明けの初日に、最初戸惑ったっけ。営業はその日から外回り開始だったから。 「このお土産、藤崎さん? 実家、静岡なの?」 「うん。どうぞどうぞ、召し上がれ」  藤崎さんはちょうど配り終わったところだったらしく、ほぼ空になった箱を片手に戻ってきた。そして、俺のデスクに二個お菓子を置いた。俺と、きっと、伊都の分。お互いの子どもに会ったことはないのだけれど、それぞれの話題に必ず出てくるから、うちもさっき個包装になっているお菓子を藤崎さんのところにだけふたつずつ置いた。 「皆、あっちこっちけっこう旅行行ってるんですねぇ」 「藤崎さんは?」 「うちは実家行ってのんびりして終わりました。あ、これ誰だろ。京都かぁ、暑そう」 「夏の京都も楽しいよね」  面白いんだ。それぞれ、行った先でお菓子を買うから、この長期休暇で誰がどこにいったってわかってしまう。 「あ、誰だろ、沖縄行って来たんだ」  ちんすこうのお土産がひとつ、お菓子の山の中から発掘された。 「あ、それ経理の子です。彼氏と行って来たって言ってましたよ」 「へぇ」  沖縄旅行か。楽しいだろうな。隣で藤崎さんが悔しそうに、溜め息をひとつ零した。 「いいなぁ」 「沖縄? 俺も行ってみたい」 「んー。沖縄は暑いから、ヤです。それじゃなくて、彼氏さんと行ってきたんだそうです。彼氏と旅行とか、恋とかうらやましいなぁって」 「……」  藤崎さんが溜め息をひとつ落としてから、沖縄土産のお菓子を開けると、ぱくりと一口で食べた。 「恋なんて、もうずっとしてないなぁ。楽しそうだなぁって」  そんな彼女の言葉を聞きながら、ふと、今朝の睦月を思い出していた。

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