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第28話 遥か遠くの出来事です。

 恋愛なんて、もうドラマの中の出来事ですもん。小学生になった娘と一緒になって、恋愛ドラマ見てワーキャー騒ぎながら見学してる感じ。  恋、かぁ……って、感じ。  あまりに遠ざかりすぎて、忘れちゃってます。そうそう、この前、娘と遊園地行って、そしたら、若い男の子に「おねえさん」って言われちゃって、やだもう! みたいな! マダムな反応しちゃいました。  恋は、もう、しないかなぁ。きっと。うん……羨ましいけど、もう恋愛とか、なんか遠い出来事って感じしかしなくて。ときめくってどんなだっけ? みたいな。  そう、彼女は言って、お土産のお菓子を食べていた。  俺も、そう思ってた。彼女も俺も子持ちで、シングルで、環境が似てるから、彼女の気持ちがちょっとわかる。少し違うとしたら、彼女の場合は離婚で、俺の場合は死別ってところだけ。  子持ちだから、恋愛する暇がそもそもなくて。相手を見つけるための時間もない。その時間は子どもとのやり取りだったり、学校のことに費やされていて、買い物だって、洋服とかお洒落をするための買い物じゃなくて、毎日の食材の買い物。  恋をする機会は探さないと見つからない。毎日忙しくて、その恋を探す時間なんてちっともない。  俺の場合は、懐かしむこともないほど、突然、全てが変わったから、戸惑いながらも伊都を育てることに必死にすぎて、恋も何も忘れてた。 「コーチ! すげーっ!」  伊都がベランダでおおはしゃぎだ。  今、ふたりで今朝発見した蝉をどうにかしている。俺は、その間に蝉から遠いキッチンで夕飯の準備中。今日の夕飯は、会社で配られた、実家の野菜土産を使った、マーボーナスと、それに合わせた中華サラダ。  もう、退治、できたのかな。  睦月へ送られ続けた伊都の熱い声援がやんでいる。何をしているんだろうって思って、ベランダのほうへ首を伸ばしてみてみると、ふたりは蝉の場所から離れたところに座り込んで、何か話をしていた。 「おとぉぉぉさぁぁぁぁん!」  と、思ったら、いきなり大きな声で呼ばれて身構えた。 「見て! これっ!」  何を話してるんだろうと思ったら、いきなり手に何か握ってこっちにやってくるから、何かと思うだろ。蝉は大の苦手なんだから、キッチンに持ってこられた日には絶叫してしまう。そして、案の定、絶叫しかけて「ギャ」くらい叫んだところで、小さな掌が見せてくれた、黒い米粒に叫ぶのを慌てて止めた。 「アサガオの種! これ!」 「……」 「コーチが取っていいんだって言ってた。これね、種なんだって。これを植えたら、またアサガオ咲くんだって」  でも、もうすぐ九月になって、秋になるから、この種を撒くのは来年にしようって言ってたよ。そう伊都が笑っている。手には三粒のアサガオの種。 「来年、一緒に植えて、一緒に観察日記につけようねって、コーチに言ってたんだぁ」 「……ぇ」  来年、のことを、伊都と睦月が約束してる。 「伊都君、まだ、こんなにあったよ。ほら」  あ、どうしよう。 「ホントだぁ。コーチいっぱいすぎる」 「これ、全部植えたら、すごい綺麗だろうね。グリーンカーテンにできるよ、きっと。来年まで、何か、ぁ、千佳志さん、缶とか箱ってあります?」  グリーンカーテン、その単語は小学校で聞いたことがある。自分のいる教室にもあるってはしゃぐ伊都の手にもたくさんのアサガオの種。ふたりでぎゅっと握り締めた、来年植えることになった種。 「千佳志さん?」 「! あ、うん。えっと、箱は……」  キッチンの上の棚に使ってない空き箱とかを取っておいてあるんだ。何かの時に使えるかもしれないって。うちの母もこういうのをいつかの時のためにとっておいたっけ。でも、結局は使わないことが多いんだけれど。親子だよね。俺も取っておいたけれど、やっぱり使うことがなくて、一番取りにくい棚の高い場所に積んでいた。  箱に触れそうで触れなくて、でも、脚立をわざわざ持ってくるなんて大袈裟なこともしたくないから、必死に背伸びをして手を伸ばした。その手よりもずっと高いところに届く、大きな手。骨っぽく、節くれだった手は簡単に箱をひとつ取ってくれた。 「これ? どれでもいいの?」 「! あ、りがと」  睦月の手だ。 「どういたしまして」  その手が箱をあけて、中に、来年用のアサガオの種を入れた。 「ハイ。伊都君」 「わーい! 俺、ちょっと仕舞ってくる!」  伊都が七歳らしいはしゃぎ方でぴょんぴょん跳ねると自分の机の引き出しに向かった。 「千佳志さん」  今、こっちを見ないで欲しかったよ。  ――もう恋愛とか、なんか遠い出来事って感じしかしなくて。  だって、君と伊都が来年の話なんてしてるから。  ――ときめくってどんなだっけ? みたいな。 「千佳志さん……」  どんなだっけって、俺も思ってた。ときめくって、もうその言葉すら遠くなってたけれど。きっと、こんな感じ。  触れ合う唇が気持ち良くて、とても、柔らかくて甘くて、温かい。 「……ン」 「ごめんなさい。今、どうしても、キス、したかった」  心臓がどっくんどっくん大騒ぎして、指先まで痺れるほど恋が胸から全身に広がって、じっとしているのが難しくなる。気持ちが溢れて、触れたくなる。 「あと……もうひとつ」 「?」  キスしたくて、指先に触れたくて、触れてもらいたくて、好きって、もうお互いに知っているのに、また伝えたくなる。  君が伊都と仲良く話している光景を見ているだけで、ときめくのに。そこで来年のことを、俺が聞いてるとか聞いてないとか関係なくされたら。来年も君と一緒にいるみたいに言われたら。 「来年も蝉は俺に任せてくださいね」  うちは子どもの勉強机をリビングに置いているから、すぐそこなんだ。ちょっといけばそこに伊都がいるけれど、でも、まだ待って。  伊都、ちょっとだけ、待って。 「今日の夕飯って、なんですか?」  まだ、迷ってて。来年植える種をどこに大事に保管しようか、もう少しだけ迷ってて。 「今日は、マーボーナス、です」  普通の会話で誤魔化して、伊都がこっちに来るまでに、あともう一回、睦月にキスがしたいから、もう少しだけ、来年用のアサガオの種とそこで待っていて。

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