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第29話 恋の付録

 朝、挨拶を交わして、晩になればうちでご飯食べて、伊都と三人でおしゃべりして、そして、また朝になって――。  それがたまらなく愛しいって思える。彼がうちにいて、笑い声がして、伊都のはしゃいだ声が聞こえると、まるで部屋に花でもあるみたいに明るく感じられた。ふたりでいた時もすごく楽しかったよ。笑って、怒って、伊都とのふたり暮らしに不満なんてなかったけれど、今は、すごく満ち足りている。  今日で、伊都のスイミングスクールは終わり。これで夏の短期集中レッスンはもうなくなる。 「……」  三階から伊都の水泳風景を眺めるのも今日で終わりだ。  随分上手くなったなぁってちょっと感動した。最初の頃、水に顔をつけるのさえ怖がっていた伊都が今じゃ、ビート板なしでケノビのバタ足であんなに泳げるようになった。今は最後まで頑張ろうって、遊びなしの最終レッスン。たぶん、睦月がいるあそこまで、息継ぎも挑戦してみよう! そんな感じなんだと思う。プールの中央、スタートラインからだと十メートルくらい。大人なら壁を蹴って手を伸ばせば届いてしまうかもしれない。けれど、子どもの伊都にはとても長く感じる距離だろう。  睦月の唇が「がんばれ」って大きく形を作る。  何度も、何度も、睦月が大きな声で伊都を応援していた。 「……あと、ちょっと」  思わず呟いてしまった。  水の中で力んだらお尻が下がってしまう。力を抜いて、でも一生懸命顔を、頭を上げて、パッと空気を胸に溜めて、また、顔に水をつける。  すごいよ。  本当にすごいと思う。  水につけるのさえ躊躇っていた伊都が何度も何度も顔を上げて、また水に顔つけて。 「やった」  気がついたら、俺が力んでた。膝の上に置いた手を無意識のうちに握り締めて、伊都が睦月のところに到着した瞬間、小さく、ガッツポーズをしてしまった。  睦月がすごく嬉しそうに笑っていた。「すごいよ! 頑張ったね。こんなに泳げたよ」そう話してるんだと思う。唇がそんなふうに動いていた。  俺はちょうどスタートラインの辺りから伊都を見てた。ケノビの練習を頑張る背中を押すような気持ちで、ここから応援していた。だから、今、睦月の顔は見えても、伊都がどんな顔をしているのかはわからない。彼が初めて泳げた十メートル。 「ぉーぃ」  小さくお隣で見学している親御さんの迷惑にならないようにしながら、実際には聞こえないけれど、伊都を読んだ。偶然、答えるようたタイミングでこっちへ振り返った伊都。とてもびっくりした顔をしていて、口をぽかんと開けている。自分が泳げた十メートルを振り返って、こんなに泳げたんだって、またびっくりして、小さく手を振る俺を見上げていた。 「お父さん!」 「うん。見てた!」  すごいでしょ! って、顔いっぱいに書いてある。目を輝かせて、あの十メートルが誇らしいって、胸を張っているからかな。なんだか、背がたった一時間のレッスンの間に少しだけ伸びたような気さえする。 「伊都君、お疲れ様。頑張ったね」 「うん!」  睦月が来てくれた。レッスン中は帽子を被ってるけれど、それでもやっぱり濡れてしまう。茶色の髪が色を濃くしてて、肌についた水滴が彼の動きに合わせて、その肌の上を転がり落ちてく。透明な雫が睦月の肌を――。 「今日で終わりですね」 「!」  俺のバカ。 「あ、えっと、今までありがとうございました」  何、スイミングスクールで見惚れてるんだ。ここ、うちじゃないんだから、ちゃんとしないと。 「佐伯さんも、お疲れ様でした」 「いえ……」  彼の裸なら、もっとちゃんとたくさん見たことあるだろ。ここで赤面なんてしてたら怪しい保護者だ。 「そ、それじゃ、伊都、着替えに」 「はーい。あ! お父さん! 大丈夫! 俺! ひとりで! 着替えられるから!」 「え? でも」  鼻の穴を膨らませて、胸を張る伊都は、今、なんでもできるモードらしい。最初なんて、知らない子ばかりの中で、絶対にそばにいてよ! って、言ってうるさかったのに。 「そこで! 待ってて!」 「はいはい。水着忘れて来ないように」  平気、大丈夫! って繰り返しながら、ものすごいドヤ顔で更衣室の中へと消えて行った。 「伊都君、可愛い」 「えぇ? そう? めちゃくちゃドヤ顔、って、ごめんなさい。普通に話しかけちゃった」  君といると少し浮かれてしまうんだ。ここがスイミングってわかってても、なんか、ちょっと浮き足立って、今、更衣室にひとりで乗り込んで行った伊都じゃないけど、俺も調子に乗りやすいとこあるから。小さく俯いて、自分の足元に視線を落とした。じゃないと、横にいる彼の裸の胸にまた、気持ちがはしゃぎそうになるなるから。 「……可愛いですよ」  低く、しっとりとした声。  ほら、顔を上げたら、コーチの顔をした宮野さんじゃなくて、睦月が意地悪をする。俺をからかって、楽しそうに笑ってる。可愛くなんてない。男で年上で、ただの調子乗りなだけ。 「あ、こちらにいらっしゃったんですね。佐伯さん」  そんな俺たちの間に割り込むように飛び込んできた声。振り返ると、ポロシャツにジャージのズボン、ここのスタッフのユニホームを着た女性が立っていた。  毎回、でもないけれど、受付にいる子だ。可愛い感じの女の子。スポーツクラブだから、お化粧はできるだけ薄くしているけれど、目鼻立ちがはっきりしているからだろう、そもそもお化粧なんて必要ないって思える感じで、少し太い眉のせいか活発そうだけれど、でも、小柄で守ってあげたくなる感じもする子。  ここのスイミングに申し込む時に説明して入会の手続きをしてくれたのも彼女だった。 「今日でレッスン終わりですよね」 「あ、はい」 「それで、合宿も参加されたし、コーチの宮野さんから、伊都君、すごく上達早いってうかがって」  たぶん、短期レッスンじゃなくて、本格的にレッスンへ参加しませんかっていう、勧誘、だよね。 「あ、ごめん。宇田川(うだがわ)さん、俺が説明しとく」 「え、でも……」  あぁ……、って気がついてしまった。 「でも、これ、私の仕事だから。宮野さんはレッスン三回続けてだったから疲れてるでしょ?」  きっと、彼女は彼のことを好きなんだと、気がついてしまう。恋の仕方を忘れていたら、気がつかずにいれたかな。 「平気、ありがとね」 「そうですか? でも、無理しないでくださいね」 「ありがと」  今、俺は恋をしているから、彼女の表情を見てわかってしまう。少し赤い頬、じっと、彼の瞳を覗き込む視線、嬉しそうに緩む口元。恋をしてる顔だ。 「……無理には勧めない方針なんで、断ってもらっても、俺は全然かまわないです。仕事、だけど、ノルマとかもないし」 「……うん」  あぁ、どうしよう。恋してたら、当たり前みたいにくっついてくる気持ち。 「伊都がやりたいって、言ったら」  ヤキモチ、が、今、俺の中でちょっと生まれてしまった。

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