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第33話 恋の裏側
いつもどおりの朝、玄関の扉から飛び出すように外へ出て、ほらほらって伊都の背中を押して先を急かす。そして、いつもならマンションのところで、睦月がいたり、今、ちょうど出てくるところだったり。その時によって違うけれど。
「おはよう。二日酔い、平気?」
「……大丈夫です」
「寝癖、すごいよ」
口をへの字に曲げた睦月が自分の頭を撫でて、掌をくすぐる髪の先を見つけて、何度か撫でた。眠そうだ。今日も仕事だもんな。土日休みじゃない仕事で、職場の飲み会、今日が休みの人ならラッキーだけれど、そうでない人にはアンラッキーかもしれない。デスクワークじゃない睦月にしてみたら、余計にしんどいだろう。体育会系で先輩からのお酒は断れないとか、そういうのもあるんじゃないかな。営業だった時、やっぱりそういうのは断れず、飲みすぎて、帰るのすら大変ってこともあったから
「千佳志さん、ゴミ」
「大丈夫、もう昨日のうちに出してきたから。今日、仕事でしょ? まだ出勤まで時間があるのなら、ゆっくりしなよ」
なんでだろうね。
君が飲み会に行って楽しんでくるのはとてもいいことだと思う。楽しんで欲しいなぁって、思っているし。本当に、本当だよ? でも――。
「行ってきます。伊都! コーチに行ってきますって」
「行ってきまぁぁす。コーチ、今日は一緒にご飯、食べようよ」
「うん。もちろん」
でも、なんか、心がひねくれる。まるで留守番にふてくされた子どもみたいに。なんでなんだろう。
「平気ですか? 二日酔い」
「もちろんです」
「そしたら、シジミのお味噌汁にしますね」
ぷいっとそっぽを向きたくなる。これは、可愛くないやつだ。この前のヤキモチとは違う、可愛くない棘。
「行ってきます」
だから、急いで会社に行くフリをした。いつもみたいに、慌てているような素ぶりをして、その場を離れた。
会社に着いて、デスクに鞄を置いて、五秒くらい? 顔を上げて藤崎さんがじっとこっちを見てから、ぽつりと俺を呼んだ。
「おはようございます。佐伯さん。私、大変なことが起きました……」
「え? 何?」
「……」
そして、また俺の顔をじっと見つめて、眉間に皺を寄せる。どうしたんだろう。いつもの彼女なら笑顔でおはようございますって挨拶をした後、前日に起きた娘さんとのほのぼのエピソードを語るのに。大変なことって、娘さんに何かあったんじゃ。
「なんか……佐伯さん、機嫌悪そう」
「……へ?」
眉間に皺なんて寄せていない。口もへの字にしていない。でも、藤崎さんは俺の表情を見て不機嫌そうだと言った。
「え? そう?」
「はい。すごく、我慢してそうな顔してます。なんか、ありました?」
「あー、えっと。っていうか、藤崎さんこそ、何かあったんでしょ? 何?」
「そう! あったんです。めっちゃびっくりすることが起きて、私……」
私――その後に続く言葉を全力待機した時、課長が入ってきてしまった。仕事開始。ついさっきまでの、のほほんムードが一緒でピリッと引き締まり、パソコンを打つリズミカルな音が響き始めた。もちろん、俺たちも仕事をしないといけないわけで、藤崎さんの身に起きた大変なことは聞けずじまいになってしまった
普段の彼女はよく話すほうで、娘さんに会ったことはないのだけれど、きっと会っても初対面の感じはしないんだろうなって思うくらい。藤崎さんに似て明るく活発な感じがする子、だと思ってる。
めちゃくちゃ気になるんですけど。藤崎さんに何が起きたんだろう。もしかして、前の旦那さんが絡んでる? 旦那さんの浮気と金銭のことで離婚したって聞いてる。その旦那さんが復縁を迫って来たとか? もしくは、娘さんに? 小学校で何か起きたとか? もしかして、イジメ? けっこうあるっていうし。ネット使ったイジメだから親は気がつきにくいとかって聞く。それとも、別のこと? ませてるって言ってたから、何かそういう恋の話とか?
「びっくりしました。まさか、交際申し込まれるなんて。まだ私、いける? って、ちょっと嬉しかったりして」
あははって、彼女の力のない笑いが秋空に消えた。
午前中、仕事をしながら色々考えてた。恋の話かなとか色々。結果、恋は恋でも娘さんじゃなくて、藤崎さんに、だった。
昼休憩のチャイムと同時に藤崎さんと一緒に外の公園へ向かった。お互いにお弁当持ちだから、公園でピクニックを楽しむサラリーマンとOLみたいに側からは見えたかもしれない。
「前の職場の知り合いで今でもたまにラインとか連絡は取り合ってたんですけど。二つ下で、独身で、仲良かったし話しやすかったし、で、この前、その、前の職場のひとりが結婚するってなって、お祝いに行ったんです。娘連れて、そしたら」
その結婚祝いの食事会の帰りに交際を申し込まれた。離婚がきっかけで転職したから、その彼は藤崎さんの事情を全て知っていた。
全て知っていて、付き合って欲しいと言われた。結婚を先に見据えた交際。
「それで?」
「断りましたよ」
彼女がぱくりとおにぎりを食べて、苦笑いを零した。俺は、箸を止めたまま。
「えっ? なんで?」
「なんでって……無理でしょ」
そして、ひとつ溜め息をつく。
「だって、独身の男がお父さんは、できないでしょ」
「……」
「無理だと、思うもん」
父親になるなんて、きっと無理だと思うから。
「そんなこと……」
ないと思う、って言い切れない自分がいた。親になる前だったら、きっと言い切れていたと思う。大丈夫だよ、君の気持ち次第だよって。
「恋愛と子持ち夫婦は全然違うじゃないですか。彼は大丈夫って言ってくれたけど、でも、一時のことじゃなくて、ずっと、ですよ?」
いつでも娘は一緒にいるわけで、デートでも家でも、ふたりっきりになるチャンスはほぼない。それでかまわないっていうけれど、でも、それがずっと続くんだ。一回とか二回とかじゃなく、交際も新婚も全部すっ飛ばして、家族になる。
それを本当にできるの? 彼氏彼女、っていう、彼が今までしてきた交際とは違うんだよ? ふたりで飲み屋で晩酌もできない。デートで映画鑑賞ったって、その映画は選ばないといけない。楽しいことばっかりじゃないのは普通の交際も同じだけれど、でも、それ以上。煩わしいと思うかもしれない。そんな不安がわずかでもよぎったから。ねぇ、わかってる? って、確認したくなってしまったから。
ふたつ年下の彼が急に「お父さん」になれるとは、思えない。
「だから、断りました」
「……」
そして、彼女はクスッと笑って、座っている足元の小さな、小指の先くらいの小石を蹴った。
「それで、佐伯さんは何があったんです? 伊都君、どうかしたんですか?」
子持ち同士の会話の一番中心は常に子どもだ。話題のほとんどが子どものこと。今年の最新ファッションよりも子どもの服のサイズが毎シーズン変わるから安売り早くして欲しいとか。今シーズンの風邪はくしゃみがひどいって話だとか。
「……俺は」
彼女がじっとこっちを見つめていた。
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