34 / 113
第34話 酔っ払い
あぁ、そっか、って思った。今朝のひねくれた気持ちはたぶん、藤崎さんが言っていたことと同じ場所で生まれた棘だ。
そう納得しながら、彼女には何も言わなかった。棘のありかを確認できたから。
――なんでもないよ。ホント。
――えぇ? でも、なんか、今朝の佐伯さん。
ううん。なんでもないんだ。ただ、場所が違う時があって、それが、すごく寂しいっていうか、溜め息が零れたっていうか。
睦月が昨日いた所は俺にはもう不慣れになってしまった場所で、そこに行きたいとは思わないけれど、でも。
―― 一時のことじゃなくて、ずっと、ですよ?
来年のことを睦月が話してくれたのがたまらなく嬉しかった。でもさ、それってさ、俺の中で睦月とすごす来年の自分はイメージできてなかったってことでもあるんじゃない?
飲み会楽しんで来て欲しいって思ったのは、本当なんだ。睦月から来ていたメールに返信しなかった。遠慮したんだ。寝てるだろうって、思いやりはとても大事だと思うよ。一緒にいるためにはなくちゃならないことだと。でも、思いやりと、遠慮は違うっていうかさ。
俺は、彼に遠慮しないでここまで来てって言えるのかな。俺のいる、ここに。
「伊都―! ゴミ出して来るから!」
「はーい!」
早くしないと睦月が来てしまう。その前に、昨日みたいにゴミを先に出しておこうと思った。昨日は飲み会の翌日にその手間をかけたくないって思って、遠慮した。っていうか、今までが図々しいかったよねって、そう思った。
「ずっと……かぁ……」
昼間の彼女の言葉が頭の中で浮かんで消えて、くるくる回ってちらつくんだ。今、毎日睦月と夕飯食べるのが楽しくて、嬉しくてしかたない。でも、この毎日がどこまで続く毎日なのか、自分がどうしたいのか、わからない。
「……いえ、大丈夫です」
突然、聞こえてきた声に足が止まった。
睦月だ。睦月が電話? をしている? 暗くてわかりにくいけれど、うちのアパートの手前の駐車場に立って、俯きながら、大丈夫ですって、誰かと話してる。
「いえ……まだ、どうするか、ちょっと……」
誰と話してるんだろう。楽しそうな話じゃないのは声でわかるけれど。
「えぇ、わかってます。もう、決めないとって。来年にはちゃんとしたいって思ってます」
ぼそぼそと低い声は歯切れが悪くて別人みたいだった。足元の石ころを足先で蹴っているのか遊んでいるのか、睦月の返事の合間合間に、じゃりじゃりって音が混ざる。
「もう、年齢考えて、はい……ちゃんと……はい」
年齢って? 睦月の年齢? を考えて、来年って。
「決心ついたら、申し込むつもりです。……はい、失礼します」
電話はそこで終わった。そして、ひとつ溜め息の音。睦月が吐いた重たい溜め息に咄嗟にその場でしゃがみこんでしまった。
なんで、隠れてるんだ。そう思うけれど、でも、今、睦月にどんな顔をしていいのかわからなかった。だって、あの低い声は彼の重たい気持ちをそのまま代弁してくれていた。
睦月があんなふうに渋々話すような内容に、どんな顔をしていいのかわからない。隠されたらイヤだけれど、もし仮に全て教えてくれたとしても、きっとどんな言葉をかければいいのかわからない。だから、胸のうちに生まれた不安の思うがままにしゃがみこんで隠れてしまった。
誰と話してたんだ? 彼の声でもう一度再生してみたら、得体の知れない不安が足元からふわりと煙みたいに立ち込めてきた。
何かを来年どうにかしないといけなくて、決めないといけなくて、それは彼の年齢にも関わっていて、そして、俺には聞かれたくないこと。今の電話の相手は誰で、一体、ナンの話をしていた?
「あ、おかえりなさい。今、俺、来たんです。チャイム押したら、伊都君しかいなくてびっくりしました。ゴミ、出して来たって」
「あ、うん」
いつもの、睦月だ。ふわっと笑って、柔らかくて優しい低い声。重たく足元にすぐに沈んでしまうような空気はこれっぽっちも混ざっていない声。
「明日の朝、出してきたのに」
「あ、ちょうど、コンビニ行こうと思って」
「? 何かないですか? うちにあるものなら、今」
「平気っ俺のお昼ご飯、パンにしようかなぁって思って。今、ちょうど、角のところのコンビニでパンが五十円引きなんだってさ。キャンペーン」
この辺にはコンビニくらいしかなくて、睦月と鉢合わせしないように隠れてしまった俺はただのゴミ出しにしては帰るのが遅くなってしまった。コンビニに寄ってきたんだっていう理由しか思いつかなかった。
「でも、あんま良いパンがなかった。そりゃそうだよね。時間が時間だし」
さっきの睦月の会話、期日が、リミットがあるみたいに話してた。今、目の前にいる彼に、いつもと変わったところはない。それが逆に不安にさせる。さっき、外で俺が盗み聞きしてしまった「彼」は一体誰だったんだろうって思わせるほど、今の睦月は笑顔で明るい。
「パンにするんですか?」
「うん。たまには、いいかなぁって。昼でも大丈夫だから」
「……」
「ホント、平気」
君が平気そうにしてればしてるだけ、さっきの「君」を俺は知るべきじゃないんだろう? 忙しなく手を動かし続ける。
「平気、だよ」
じゃないと、足元からふわりふわりと立ち込める不安の煙に飲み込まれてしまいそうだったから。
決心したら申し込むんだって。何を? 誰に?
年齢を考えてるんだって。俺の四つ下、睦月は二十四歳。
来年にはちゃんとしたいって思ってるってさ。まるで、それって。
「結婚……」
「え? 再婚するんですか?」
「うわあああああ!」
突然の叫び声に声をかけた藤崎さんも、そして、俺の周囲にいた人もびっくりしていた。
「ごめっ」
藤崎さんはうろたえる俺を見て、じっと、観察してから、ニヤリと笑うと、かっさらうようにパンと一緒に俺を公園まで連行した。
あまりに昨日の睦月が気になって、本当に忘れたんだ。お昼ご飯。夏休みの間、伊都のお弁当ついでに作っていたけれど、もう学校が始まったからお弁当が必要なくて、夕飯の残りをお弁当のおかずにしている。でも昨日は睦月に昼食をパンにするって言ったから、おかず残せなくて。朝、適当に卵でも炒めればいいやと思ったけれど、忘れて、けっきょく本当にパンを買うはめになった。
「それで? 何か、あったんですか? この前も様子変だったし」
「あはは。ないよ。本当に」
「……育児疲れとか?」
「疲れてはいるかもだけど、別にそれは関係ないよ」
「……じゃあ、お金! やっぱ、節約しないとですもんねぇ。保険のこととか?」
「あはは、それはたしかに悩みどころではあるけどさ」
所帯じみた会話になんか、ホッとした。保険どれがいいかなぁとか、節約料理何かないかなぁとか、小学生の子どもを持ってるとやっぱり学費とかどんどんかかってくるだろうし。中学生になったらそれこそ、って、シングル同士でお金の話って、すごく現実味があるよ。
「……」
現実味、がさ。
「じゃあ……恋の、悩みとか?」
「!」
好きって気持ちは人を浮かれさせる。沈めることも、空高く舞い上がらせることもできる。上がって下がって、その瞬間は何も考えられなくなる。
「佐伯さん?」
「……」
まるでジェットコースターみたい。
心配そうに覗き込む藤崎さんの肩越しに見つけた人影。一瞬でパッと目に飛び込んでくるその人陰にすら気持ちはふわりと飛んで、舞って、自分の手じゃつかめないところにまで上昇してしまう。それこそ勝手に飛んでいってしまうんだ。
「いや、なんでもない」
彼がここにいるわけないのに。少し似ている茶色の髪、抱き締めたことのある大きさに似ている背中。たったそれだけで、彼だと思って、あっという間に飛び上がってしまう。まるで、酔っ払いだ。何をしても笑って飛び跳ねてはしゃいで、酔いがさめた後に残る頭痛のことなんて、これっぽっちも、飲んでいる時は考えていないんだ。
ともだちにシェアしよう!