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第35話 恋を掴んで

 来年の今頃、何をしてるんだろうとか、誰といるんだろうとか、わけのわからない不安に襲われてしまったと思えば、好きな人に似た背中を見つけただけで、舞い上がる気持ちとか。  藤崎さんの言っていることは痛いくらいにわかるんだ。綺麗で甘くて真っ赤な恋のまんまで手の中に持ち続けてはいられない。  四つ年下の彼を思って、悩んで、考えて、落ち込んだり、飛び上がったり。滑稽かもしれない。彼に恋をしたと自覚するまでそう時間はかからなかった。気がついたら、もう好きになってた。あっという間だったよ。  ほら、よく言うでしょ。いつか冷めるって。熱せられるのも早かったのなら、冷えて、熱を失うのも早いかもしれない。藤崎さんのいうとおり、彼とすごす将来は、ずっとは続かないかもしれない。  考え出したら、悩み出したら、止まらない。 「ねぇ、お父さん、今日の夕飯なんですかっ!」 「んー、何にしようか」 「俺ね、海草サラダと、焼肉炒めと、春雨スープがいい」 「っぷ、それ、全部、コーチの好きなものじゃん」 「いいのっ! 俺が食べたいのっ!」 「いいけどさ」  膨れっ面の伊都はもうコーチの好きなものもばっちり知っていて、それを一緒に食べるのが大好きで、コーチのことが、大好き。でも、彼は伊都のコーチだ。そして、彼にとって、伊都は教え子で、恋人の息子だ。  その関係を変えるのはすごく大変なこと。困難で、もしかしたら全てが粉々に砕けてしまうかもしれない。それなら、やめておいたほうがいい。この関係がふわりとほどけて水に溶けるように消えて形をなくすまでそのままにしておいたほうが。 「あれ? 佐伯さん?」 「……」  やめておいたほうがいい。 「やっぱり、声が佐伯さんだったから。あっ、えっと、わからないかも。私服だから、スポーツクラブの」 「わかります……受付の」 「あ、わかりましたか? エヘヘ、この辺に住んでらっしゃるんですか?」  もうこの時期になると伊都と一緒に帰ってくる頃には日が暮れて、住宅地のこの辺りは薄暗くなる。駅前なら栄えてるけれど、この辺は街灯も乏しくなるから、顔がわかりにくい。それでも、彼女だってすぐにわかった。 「……えぇ」 「そうなんですね。あ、私、ちょっと用事があって。あ、伊都君だ。こんばんは」 「……こんばんは」  誰だかわからないよねって笑って、彼女は髪を耳にかけて首を傾げ、柔らかく微笑んだ。女性らしい甘い笑顔と、それと、スポーツクラブではつけていない甘い香水の香り。伊都は誰だかわかってないんだろう。見た目が全然違うから、初対面の人だと思って、緊張している。いつもは外じゃ繋がなくなったのに、俺の手を咄嗟にぎゅっと握り締めた。 「……宮野さんに用ですか?」 「え? あ、はい。えっと、この辺に住んでらっしゃるので」  知ってるんだ。 「彼なら」  藤崎さんみたいに、最初から恋なんてせずにいられたらよかったのかもしれない。伊都のこと、父親としての自分、将来のこと、育児とか諸々、それこそ保険の話みたいに所帯じみて、甘くて美味しくて可愛いお菓子みたいな「恋」とは無縁なことばかりがくっつく子持ちの自分と彼じゃ、結局、道は違えてしまうだろうから。だから、最初から、恋はしませんって断れたらよかった……のかな。 「彼は……」  でも、無理だった。抗う、っていう選択肢を持てなかった。俺は無理だったよ。 「千佳志さん!」 「あっ! お父さん、コーチ帰ってきたよ」 「……うん」  俺は、君を好きにならずにはいられなかったんだ。今、息を切らして、駆け寄ってくる君に胸を躍らせずにはいられなかった。 「あの、なんで、君がここに?」 「こんばんは。あの、この前の飲み会の帰り一緒のタクシーで先にここで降りたでしょ? ちょっとだけ、時間作れないかなって。ごめんなさい、急に」 「本当に急です。こういうのはやめてください」  君のことをどうしても好きで、止められなかったんだ。 「俺、今夜の飲み会、行かないって言いましたよね」 「……」 「好きな人がいるんで、って断りましたよね」 「あの」 「佐伯さんもすみません。変なことに巻き込んで」 「えっ? ぁ……いえ」  佐伯さんって呼ばれて、胸のところがチクリとした。わかっているのに、それでもチクッとした。俺が彼の立場でも同じように距離を取ったはずなのに。伊都もいるし、同性の俺たちはここで離れてるようにしないといけない。けれど、その距離はあの飲み会の時に感じた、君と俺との距離そのままだったから、イヤだった。もがいてでも手を伸ばしたい。 「変なことじゃないです」 「さえ……」 「うち、ご近所なんで。今日、夕飯を一緒にするって、ことに」  彼女が目を丸くしてた。部外者がいきなり乱入してきたことに驚く顔。それでもいいよ。なんでもいいよ。彼女がどう思ってもいい。かまわない。ただ、彼に手を伸ばしたい。  ごめんね。 「なってるんで!」  言ってしまった。彼は渡さないって意思を込めて、大きな声で言って、彼の手を掴んでしまった。  ごめん。睦月。君はまだ独身で、まだ、たくさん遊びたい歳で、友達だって多くて、いきなり所帯じみた感じは似合わないと思うけれど。 「行きましょう。宮野さん」 「コーチ、今日の夕飯、焼肉炒めと春雨スープと、あと」 「海草サラダ!」  来年には決心しないといけないことがあるんだろ? もう歳だから身を固めないといけないんだろ? 申し込まないといけないことが待ってるんだろ? 「そうそう、海草サラダ! 一緒に食べようね」  知らないよ。なんで、あんなに声が重たかったのか、わからないよ。君が何を決めないといけないのか、それが結婚かどうかなんて、知らないよ。 「一緒に食べましょう」  でも、同性を好きになることで俺はたくさんのことを飛び越えたよ。藤崎さんはそんな諸々を考えて、ジャンプすることをやめたけれど、俺は、やめられなかった。君を好きになった。  恋に落ちた、んじゃなくてさ。 「……って、勢いで、連れて来ちゃいましたけど、あの」  彼女、きっとぽかんとしていた。俺は振り返って見る余裕なんてなくて、君をさらうことに一生懸命だったけれど、なんだあれって思われたよね。 「今日の夕飯、食べ、てって、くれる?」 「……」  でもいいよ。勢いで、俺が睦月の右手を、伊都が左手を掴んで引っ張って、さらってきてしまった。可愛い、とても可愛い女の子から。それでいい。  君のことをさらいたかったんだから。 「え、ちょ、睦月? ごめっ、あの、ダメだった? えっと」  玄関扉を閉めて、彼をうちに誘拐し終えたところで、急に慌てて確認したけれど、遅い? 何か用事があった? そういえば、今夜飲み会断ったって、明日、そうだ、睦月は休みだもんな。飲み会とは別の用事があったりした? ねぇ、睦月、しゃがみこんで、溜め息ついてるけど。 「ホント……もう、怒りますよ?」 「!」  顔を上げた睦月は口元を手で覆い隠しながら、それでも隠せない頬を、おでこを、耳も、真っ赤にして、困ったように眉を寄せ、俺から目を逸らす。 「睦月?」 「我慢、ちょっと、しんどいです」 「コーチ我慢してるの? お腹空いた? お父さんに早く作ってもらうよう、俺も頼んであげるよ」  思ったんだ。恋に落ちたんじゃなくて、恋に手を伸ばして、飛び上がって掴んだんだって。色々な悩みとか問題とか、たくさん足元にあるのを全部飛び越えて、ジャンプして、君との恋を両手で必死に掴んだって。 「ご飯、食べる?」 「……貴方の作った飯、めちゃくちゃ食いたいに決まってるじゃないですか」  恋を両手で掴んだって。

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