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第36話 離さない
恋人同士でよく起こるすれ違い。お互いにとても好きだけれど、別々の人間だから、全てを知ることは不可能だ。仕事とか別々の友人とか、諸々の理由で何をしているのかわからない時間は必ず存在する。胸のうちもそう。何を考えてるのか、その全部が伝わることも、伝えることもできない。そして生まれるすれ違いを、恋人同士なら親密な、二人っきりの時間に広げて、晒して、分かち合うことができるけれど。
「春雨、そのまま入れます?」
「あ、ううん。一回、湯通ししないと」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった」
俺とじゃ、それもままならない。
「好物なのに?」
ほらね? ついさっき、君のことを好きだとアピールしてくる、君と同年代の可愛い女の子からさらったばかりなのに、今は夕飯の支度の真っ最中だ。お互いのすれ違ってしまった部分を分かち合う時間はない。
きっとこういうことだ。独身の君が俺を選ぶって、きっとこういうこと。
「貴方が作った春雨スープが好きなんです」
「……」
「めちゃくちゃ美味しいから」
それなのに、君は笑顔で俺の隣に立って、料理を手伝ってくれる。そんな君が好きだから、俺はどうしても君から離れたくないんだ。藤崎さんみたいには諦められない。君のこと、どうしても無理だよ。
「ねーねー、コーチ、これ、宿題見てください」
「いいよ。へぇ、音読チェックなんてあるんだ。伊都君、そっちでやろう。千佳志さん、春雨、お願いしていいですか?」
頷くと、くしゃっと笑って、伊都と一緒にリビングへと向かった。そして聞こえてくる、伊都のたどたどしい読み聞かせ。スラスラ言えてるかどうか、モジモジせずに大きな声ではっきりと相手に伝えられているかどうか。それを家族が聞いて、マルをつけていく。
「そして、キツネが、コンコン、と、なきましたっ」
家族が。
「おとうさんキツネは、おや? と、くびをひねります」
この宿題を家族にやってもらうんだと伊都がこの前、俺に頼んできた。家族に、って、伊都はわかってるはずなのに、俺じゃなくて、コーチに頼んでる。俺が忙しそうにしてたから? 睦月を彼女からさらうのに決意を込めて、あの手を握り締めたから、怖い顔をしていた? 単純に、伊都は睦月が大好きだから、カッコよく読めるところを見せたかったのかもしれない。いつもより大きな声、いつもよりもハキハキとした話し方、いつもよりも嬉しそうにピンク色をした頬。
「そして、おやこキツネは笑いながら、ゆきのなかを、かけていきましたっ」
「おおお、上手。そしたら、これで……はい。次の宿題は?」
「うん!」
きっと一番よくできましたの花マルがついたんだろう。はしゃぐ伊都の声は次の宿題も頑張るぞって飛び跳ねている。
「彼女からこの前の飲み会の後、好きって、言われました。付き合って欲しいって」
戻ってきた睦月がいきなりそんなことを言って、湯がいた春雨のザルを手に持った。
「……うん」
「断りましたよ」
うん。わかってるよ。さっき、そう言ってたよね? 彼女に。
「貴方に言わなかったのは……怖かったから」
「え?」
意外な理由に、焼肉炒め用の玉葱を切る手が止まった。
「連絡なかったのはきっともう寝てるから、そう思ったけど、それでも翌朝までスマホが気になって仕方なかった。彼女のことでヤキモチをやいてくれた貴方が、飲み会をすんなり受け入れてくれるのは理解がある大人だからって思うのに、なんか不安だったんです」
「なんで、不安なんて」
「……なんで、なんでしょうね」
そして、ふわりと笑う。
「貴方が俺に遠慮してるって思ったから、かな」
その翌日、少し様子が変に感じられた。そして夜、家にいったら、俺の様子はたしかに変だった。遠慮よりももっと、よそよそしい。いつもは自分に任せてくれるゴミ捨てを済ませていたことも、パンを買いに行くついでなのかもしれないって何度も思うけれど、その都度、そうじゃなくて、生活圏に介入されないようにと距離をとらえてるような気がして。
「で、不安のあまり、貴方が買えなかったっていうパンを買って、それを理由に職場近くに行ったんです。引かれるだろって思いながら、それでも」
傷がどうしても気になる子どもみたいに、その不安を確かめずにはいられなかった。
「行かなきゃよかったって、めちゃくちゃ後悔しました」
「え?」
「貴方が女の人と公園のベンチで昼飯食べながら、なんか、話してるのを見たから」
「!」
あの時、睦月に似てる背中を見つけた。俺は、君のことが好きすぎて、想いすぎて、どこかの誰か、他人の背中さえ君に重ねてしまったんだと思ったけれど、あれが、本物だったなんて。
「それはっ」
「別に千佳志さんだって女性の友人くらいいるだろ。子育てしてるんだから、ママ友っていうのがいてもおかしくない。そこを気にしだすなら、自分だって職場に女性はいるし、そこにやましいことがないとしたって、って、そんなのを繰り返し考えて」
「睦月、あれは、そんなんじゃなくて」
「不安だったんです。本当に好きだから」
「っ」
睦月の瞳が揺れていた。どうしても足元からこみ上げ来る不安を掻き消すことができず、どんどん狭くなる視界、煙くなる目の前に、息が苦しくなる。
とめどなく溢れる恋にどうしたらいいのかわからない。
「俺も、不安だったんだ」
「……彼女のことは」
「それじゃない」
慌てて首を横に振った。
「それじゃなくて」
俺も、その不安の煙の中にいたんだ。ちょうど、君が包まれてるのと同じ、真っ白で濃くて、苦しくなる不安の煙。
「来年、何かあるの?」
君が抗えないほど俺を想ってくれる。恋しくて、愛しくて、どうしようもなく好きになってくれた。それがたまらなく嬉しいけれど、たまらなく不安にもなるんだ。拭っても拭っても、その激しい恋はあっという間に冷めてしまうんじゃないかって。口の中にざらついて残る、ただの冷め切ったスープみたいに美味しくないものになるんじゃないかって。
「年齢考えて、決心ついたら申し込むって、何?」
「……」
「あの電話の相手、誰?」
いつか、この恋は冷めて、君の眉をしかめるだけの不味いものになってしまうかもしれないって、どうしても不安だったんだ。
「この前の、電話……」
「うん。ごめん。ゴミ出し行こうとして、聞いちゃったんだ」
「……ちょっと、待ってて」
「睦月?」
ただのすれ違い、なんだよね? でも、俺が決意を込めて尋ねた質問に、睦月は真剣な顔でリビングへ行ってしまう。そして、宿題を頑張っている伊都に明るい声で話しかけているのが聞こえた。
何? 俺は今、何を待ってるの? 睦月の返答を思って、心臓がぎゅっと縮こまる。このあと、平手打ちをくらうかもって、肩を竦めるみたいに、痛みに身構える。
「これ……」
「え?」
「その電話はスポーツクラブの俺の上司で、これ、水泳大会のパンフレットです」
「……え?」
「俺、貴方のこと、本気で好きですよ?」
その言葉に心臓は身構えるのをやめて、ゆっくりと、恐る恐る、けれど、しっかりと鼓動を鳴らした。
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